「カイシャ維新」は実現するか

冨山(2010)は、日本の過去の経済成長をけん引してきたカイシャ・モデルが果たす役割は20年以上前に終焉を迎えていることを指摘し、この古いモデルを解体し日本が新たな道を歩むための「カイシャ維新」の方向性を唱えている。1990年代以降、カイシャ・モデルが立ち行かなくなってきたことが、日本経済が長期低迷している実相であるため、未来すなわち新しい時代に即応した新たな日本モデルを作り出すしかないと指摘するのである。


冨山によれば、カイシャ・モデルは、戦後復興が本格化し、企業の人手不足が深刻化した時期に形成されたもので、終身雇用、年功制を人事制度の基軸とし、株式持ち合いやメインバンク制などで安定した統治・財政基盤を維持し、同質的で調和を重視した経営を行ってきたモデルである。また、中小企業カイシャが、大企業カイシャの高コスト・高固定費体質を、汗まみれ油まみれの下請け業務と不況期のバッファ的機能によって下支えしてきたと指摘する。しかし、このカイシャ・モデルは、国民の所得の上昇、少子高齢化による人口構造の変化、産業モデルの進化と多様化、新興国の追い上げなどによって機能不全に陥っていることはここかしこで指摘されてきた。


そこで冨山は、明治維新を引き合いにだす。明治維新における真の社会改革は、事実上権力を握った薩長の下級武士たちが、版籍奉還廃藩置県、俸禄処分によって士族階級の解体を断行したところにあるという。当時、人口の10%近くを占めた圧倒的な支配階級である士族を、何の罪もないのに若干の退職金で大リストラしたわけである。当然、破壊された武士階級からの怨念、呪いは半端ではないはずだったが、当時のリーダー達がそれを強い意志で引き受け、命とともにこの社会革命を完遂したことが、その後の日本の隆盛の基礎となっている。


明治維新において大リストラの対象となり「酷い目にあった」士族階級は、現在でいえばさしずめ、大企業の正社員階級に君臨する人々、とりわけ中高年世代だと冨山はいう。年功システムの中で社会的にも力を持ち、経済的にも「逃げ切れる」、いろんな意味で既得権を持った人々である。この階級の人々はもともとは日本経済を支えてきたエリートであり、現在の日本の惨状を招いた罪や責任を直接的に負っているわけではない。しかし、カイシャ維新を断行すれば、否が応でもこの階級の既得権益にメスが入り、彼らにとってはある意味理不尽な苦汁を強要する事態は避けられない。よって、これらの階級の人々が、日本の未来、次の世代のために、自らの品格にかけて社会システムの大改革を支持し、自分の身に降りかかる理不尽を受けいられるかが重要だと冨山は説くのである。


冨山によれば、今後のグローバルな資本主義経済の方向性は、設備集約型産業のグローバルレベルでの巨大化と、知識集約型産業において人材の先端性が鋭く追及されることである。よって、この2つの方向性を実現するための十分なリスクマネーの供給と知識人材の獲得が日本が生き残るための鍵となる。これを実行するための具体的方向性としては、例えば世界中の製造業のマザー工場(研究開発・技術開発を行う中核工場)を誘致するのが一例である。さらに、日本がアジア・環太平洋国家として外需で大成長をする方針のもと、政府主導などで長期性のリスクマネーを集約し、小売、観光、交通産業においても今の10倍の規模を追求する。人材面としては、一人ひとりの能力水準を必死になって高める努力を、個人として、国として行う。例えば、トップレベルの人材を世界水準に引き上げ、中間層の基礎能力も底上げする。


ここで、旧来のカイシャ・モデルは解体されざるをえず、新たな人材市場メカニズムが必要となる。マザー工場王国的な産業領域では、たしかに長期雇用が望ましいが、年功的要素よりも、能力主義集団主義の組み合わせによる人事報酬体系にしていかざるをえない。その他については、激しい国際競争と産業の新陳代謝に伴い、企業倒産や解雇が当たり前となっていくなかで、職業訓練の仕組みや、人材が企業の枠を超えて移動する仕組み、労働力の再配置メカニズムをスムーズかつ実効的になものにすることが必要となる。そのために、例えばM&Aによる事業売買を通じた人材の流動性の円滑化がよりいっそう重要になってくるだろうと冨山は主張するのである。