フリーターという言葉

フリーターは、わが国独特の言葉のように思える。なぜ、わが国では、フリーターという、もともとの造語がこれほどまでに根付いたのであろうか。


その背景には、フリーター以外の就業者、すなわち、大多数を占める正社員という身分が、自由ではない、束縛されたものである、という認識だろう。だから、自由を現るフリーを違和感無く用いることができるのである。


子供から学生までは、教育というところであるていど束縛されてみたが、時間的にはかなり自由な時間が多い。そして、大学に入ると、いっきに束縛のたががはずれ、すべて自由であることに浸ってしまう人もいる。そんなこんなで、比較的自由な時間を謳歌したのちに待っているのが、社会に出ることであり、就職であり、通念としては、社会に出ること=正社員として会社で働くこと(自営業等は除く)=この先自由を失うこと、というように捉えられているのではないだろうか。


果たして、このような自由−束縛の構図は、他の国でもあてはまるのであろうか。例えば、アメリカにおいて、アメリカ人が、仕事をするようになるということは、自分の自由が奪われることだ、と考えているのだろうか。自由を標榜する国アメリカではあまりそんな意識はないのではないだろうか。あったとしても、それは生活の糧を得るため、といった納得があるだろう。しかし、物質的に豊かな日本では、正社員として身を粉にして働かなくても、飢え死にしたりするようなことはめったにない。その分、働くことの意義を感じることが難しくなってしまっているかもしれない。