逆境をチャンスに変える「EDGE」とは

世の中は必ずしも平等、公平ではない。ジェンダー、人種、宗教、価値観、その他、様々な特徴などによって、社会において常に不公平かつ不利な立場に置かれる場合は数多くある。これらの状況では、スタート地点に立った瞬間から他人から偏見の目で見られ、不公平な扱いをされてしまう。そのような不公平な立場、すなわち「逆境」に立っている場合、それを克服して成功するためには「努力」を惜しまないことが重要だと思うかもしれない。もちろん、努力は重要であるが、努力したからといって逆境から逃れることができるわけではない。つまり、世間で不利な立場にいる場合は、がんばればそれが報われるというわけではない。正しい方向に努力を向けなければ意味がない。

 

ファン(2021)は、このように逆境に置かれている人々は、エッジ(EDGE)を効かせることで逆境をチャンスに変えることができるという。しかし、ファンの言うエッジ(EDGE)は、一般的な言葉(優位性)と言う意味もさることながら、Enrich, Delight, Guide, Effortの略語である。つまり、ファンの言うエッジ(EDGE)を獲得して逆境をチャンスに変えることができる人というのは、相手を豊かにし(Enrich)、楽しませ(Delight)、こちらが望む方向に誘導する(Guide)ことができるうえ、このサイクルを繰り返して、いっそうの努力を続ける(Effort)ことができる人だというのである。

 

まず、Enrichとして、相手を豊かにするような価値を明確にする必要がある。「あなたが価値をもたらす、相手が豊かになる。さらに、ほかの人も、あなたが価値をもたらし、そのおかげで自分も豊かになると思う」。この「さらに」があるかどうかがカギを握るとファンは言う。そのためには、自分の「基本材料」を活用して、自分だけが提供できる価値を見つけ出すことが大事だというのである。基本材料とは、ごく少数のとびぬけた能力であり、自分の強みと弱みを両方とも理解することで浮かび上がってくる。自分の基本材料を見定め、それらを1点もしくは数点に絞り、それらが最も輝く場所を見つけ、制約があってもそれを利用しつつ基本材料を活用することでエッジを立たせることができるというわけである。

 

次に、Delightとして、相手を楽しませるため、喜ばせるために必要なのが「驚き」「意外性」である。まずは相手を驚かせ、楽しませるからこそ、心の扉を開いてくれるとファンはいう。そして、驚いてもらうためには「ユーモア」が欠かせないという。無害な逸脱理論によれば、ユーモアは、普通とは逸脱したこと、それ自体は無害であることの両方が知覚されることで生じる。そのために、適度な準備として、予期せぬもの、意外なものを探し、固定観念を覆すものを考える。ただし、準備しすぎず柔軟に対応する。否定的なレッテルを貼られたとしても、ユーモアで覆ることも可能であるとファンは指摘する。また、ありのままの自分を見せ、真摯に人と向き合うことも大事だという。ありのままの自分を見せながら、場を読む能力を発揮して相手を驚かせ、喜ばせる。そして、相手を楽しませる工夫から、相手を豊かにする説明へと移っていけばよいという。

 

さらに、Guideとして、相手を楽しませ、相手を豊かにできることを証明したら、次は相手を豊かにすることである。その際、相手が自分の仕事と価値をどう認識するかを誘導することが必要となる。誰にとっても、自分らしさというのはダイヤモンドの原石である。自分というダイヤモンドの最も輝いているところをすべて相手に見せることで、相手の認識を望ましい方向に誘導する。そのためには、自分自身のことをよく理解すると同時に、他者が自分をどう見ているのかを理解することも重要だとファンは言う。そうすれば、誰もが固定観念や偏見、レッテルで人を判断していることが分かるだろう。けっして、他人の固定観念の言いなりになってはいけない。むしろ、偏見やレッテルに先手を打ち、他人の偏見を、こちらの有利になるように利用するが重要なのだとファンはいう。

 

そして最後がEffortである。相手を豊かにし、楽しませ、こちらが望む方向に誘導することができれば、いくら偏見や差別などの不利な状況に置かれていたとしても、自分のエッジを獲得することができる。そうすれば、断固とした決意をもって、そしてタフな精神を維持して、そのエッジを強化するための努力を惜しまなければ、どの努力は報われるはずだとファンは示唆するのである。まさに、逆境を利用して、不利を有利に変え、不利をエッジに変えていくこととが可能になるというのである。

文献

ローラ・ファン 2021「ハーバードの 人の心をつかむ力」ダイヤモンド社

 

イノベーションとは人々の行動が変容することである

内田(2022)は、イノベーションの本質とは、新しい製品・サービスを消費者や企業の日々の活動や行動の中に浸透させること、すなわち人々の行動を変容させることだという。であるから、単に新しいものを発明したり、技術革新によって新たな製品を作ることは、それが人々の行動変容に繋がらない限り、イノベーションとはいえないという。むしろ、人々の行動変容に成功することができるのであれば、自分で新しいものを作る必要さえないということである。誰かが作り出したものを利用しても構わないし、技術革新がなくても価値は創造できる。大事なのは、これまでにない価値の創造によって「顧客の行動が変わること」「顧客の暮らしを変える」ことなのである。

 

では、イノベーションを成功に導く要素とはなんだろうか。内田によれば、鍵となるのが、人々を取り巻く環境の変化や商品・サービスを利用する人の心理変化である。内田は、イノベーションを引き起こす源泉として、「社会構造」「心理変化」「技術革新」を3つのドライバーとし、その組み合わせを「イノベーションのトライアングル」と呼んでいる。社会構造とは、社会や業界の根幹を覆すような変化を指し、心理変化とは、消費者を代表とする市場参加者の行動、常識、嗜好の変化を指し、技術革新とは、自社の技術のみならず、業界や社会インフラの技術も含む。要するに「環境要因の変化を捉えたものこそが、イノベーションを起こしうる」「環境変化を自社の成長に繋げているからこそ、イノベーターに成りうる」ということである。

 

内田は「これまでにない価値の創造によって顧客の行動が変わること」として定義されるイノベーションについて、上記のトライアングルによりドライバーを捉え、これらを梃子にこれまでにない新しい価値を創造し、その新しい価値が顧客の態度を変え、さらには顧客の行動を変えるというプロセスを「イノベーションストリーム」と呼んでいる。これが実現すれば、一度行動を変容した人々は(便利すぎて)(当たり前になるため)元の生活に戻れなくなるという不可逆性を獲得する。具体例を挙げれば、ファストフード、コンビニエンスストア、シャワートイレ、スマートフォン、オンライン会議、動画配信サービスなど、枚挙にいとまがない。

 

先述の通り、内田は、イノベーションを起こすのに必ずしも自分で新しいものを作り出す必要がない、技術革新を実現する必要がないことを強調する。「行動変容としてのイノベーション」を実現するために大切なのは、「変わりゆく変化の中で、何が求められるかを理解し、適切な人に適切な価値を提供することであり、その際、価値を新しく作る必要はなく、既存価値を転用することで人々の行動変容を起こすことは可能」だというのである。例えば「油揚げをさらうトンビ」の例えにより、後発者として、他社が生み出した新しいビジネスや商品を同一市場で磨き上げることで顧客の行動変容を実現したケースや、イノベーションのドライバーを味方にすることで、他社が生み出したビジネスや商品を別の市場に転用して成功したケースなどを内田は紹介する。

 

また、連続したイノベーションを生み出すプロセスとして、同一顧客に対して、ある行動変容を起こした後、その行動変容をベースとする新たな価値の提供により更なる心理変化と行動変容を起こすケースや、ある顧客に対してもたらした行動変容をベースとして、最初のイノベーションとは異なる顧客に対してイノベーションを連続させるケースがあるという。

 

前者のケースを生み出すためには、最初のイノベーションで得た顧客との接点を最大限に活かしながら顧客の状況変化を把握し、イノベーションのトライアングルに起こる変化とそのインパクトを早期に捉えることが重要だと内田はいう。後者のケースを生み出すためには、最初のイノベーションから自社の強みを理解し、異なる顧客を狙った際に顧客の意見を吸い上げすぐに製品やサービスにフィードバックしていく仕組みをつくり上げること、他社が最初のイノベーションを起こした場合は、先行する他社の弱みを自社の強みで埋めること、先行する他社が取りこぼしている顧客をターゲットとすることなどが重要だという。

文献

内田和成 2022「イノベーションの競争戦略: 優れたイノベーターは0→1か? 横取りか?」東洋経済新報社

 

非線形性としてのサービス&ホスピタリティ

サービスやホスピタリティには、モノ的世界観に基づくものと、コト的世界観に基づくものがあると考えられる。モノ的世界観は工業化との繋がりが強い。工業化が世界経済を飛躍させ人々の生活を豊かにしたことは紛れもない事実であり、モノとしての製品を大量生産して消費者に届け、消費者がそれを購入して消費するという工業の発想をサービスに拡張したものが、モノ的世界観によるサービスである。であるから、モノ的世界観によるサービスは、モノを作って配達するかのようにサービスを生産して顧客に届けるという発想が伴う。生産と消費が同時に行われるというサービスの特徴はあるが、消費者がモノとしての製品に求めるように、全てのサービスにおいて、同一で安定した品質を提供しようとするものである。非製造業は全てサービス業であると理解するならば、工業化時代の産物として、このような発想に基づくサービスが世の中に多いことは理解できる。


例えば、製品としてのスマートフォンや自動車が、同じ品番あれば全て同じスペック、同じ機能、同じ品質であることが求められるように、モノ的世界観に基づくサービスは、いつ、どこで、誰から(何を通じて)それを受け取っても、期待通り、設計通りの同じ内容を伴ったサービスであることが重要である。つまり、あらかじめ設計されたサービスを設計通りに生み出して顧客に提供するということである。一方、コト的世界観に基づくサービスやホスピタリティはそれとは根本的に発想が異なる。すなわち、サービスやホスピタリティは「モノ」ではなく「出来事(コト)」である。ある特定の場所・時間、特定の関係性において一回きり生じる、唯一無二の「体験」「出来事」だと捉えるのである。


モノ的世界観に基づくサービスでは「線形性」が基本となるのに対して、コト的世界観に基づくサービスやホスピタリティでは「非線形性」が基本となると考えられる。まず、線形性という特徴は、機械的で工業化時代に適したコンセプトである。世界や組織、製品、製造プロセスなどを整然と理解することを可能とする。例えば、製造能力を2倍にすれば、生産量が2倍になる、労働時間を2倍に増やせば、アウトプットが2倍になるという塩梅である。線形性に基づいたマネジメントは、同じ品質、形体の製品を、欠陥なく正確に大量生産するといったものに適している。Xを1単位増やすと、Yがどれだけ増減するかといった関係が分かりやすいので、製造プロセスや労働プロセスをコントロールすることでアウトプットをコントロールするという発想につながってきた。要するに、マネジメント=コントロールという発想につながっているのが、機械論的な世界観と、それを支える線形性というわけである。


したがって、モノ的世界観に基づくサービスにおいては、線形性の発想を生かすことで、いかにして均質かつ高品質なサービスを安定的に顧客に提供するための仕組みを構築し、サービスの品質をコントロールするかがマネジメント上の大きなポイントとなる。別の言い方をすれば、提供されるべきサービスは、それを扱う従業員の個性や個人差などに左右されてはいけない。誰が扱っても同じ内容のサービスであるべきなのであって、顧客からもそれが求められているのである。そう考えるならば、この種類のサービスは、人間によるサービスから、デジタル化されたメディアや端末、AI、機械、そしてロボットなどを通じたサービスに置き換わっていく可能性もあることが理解できるだろう。これらは人間よりも線形的な発想でコントロールしやすい対象だからである。


一方、コト的な世界観に基づくサービスやホスピタリティの本質は非線形性にあると考えられる。非線形性の場合は、線形性と異なりその振る舞いの予測が難しく、カオス理論のように創発現象も見られる。数学的には決定論的である決定論的カオスであっても、人間には理解し難い姿が次々と生み出される。人工物や工業製品の世界と異なり、自然現象や生命は線形でなく非線形の世界である。直線ではなく渦巻き模様に代表される。気象や台風のように、全く同じものは1つとして現れない。全て異なるが、類似したパターンは見られる。


非線形性がもつ性質は、出来事(コト)であるが故に、1つ1つが唯一無二で全て異なるというサービスやホスピタリティの特徴と対応している。異なっていても、そこにはある種のパターンが見られるので、そのパターンによって、「○○らしいサービス」という特定が可能であるわけである。例えば、スターバックスの店員によるサービスは、顧客によって、店員によって、状況によって異なるだろうが、それらに何となくスターバックスらしさを感じるとするならば、それこそが、非線形性な振る舞いにおいて創発する何らかのパターンがあることを示している。


コト的世界観に基づくサービスやホスピタリティがもつ非線形的な特徴を、どう解釈してサービス&ホスピタリティ・マネジメントに活かしていけばよいのだろうか。まず、人間にとって予測不能ということは、コントロール不能であることを意味するから、マネジメント=コントロールという発想をいったん捨てなければならないだろう。誰に対してもいつでもどこでも全く同じサービスやホスピタリティが提供されるということがあり得ないということは、ものづくりのように均質なサービスを厳密な管理を通じて作ることはできないということであるから、工業製品であれば致命的な問題ではある。しかし、コト的世界観にたてば、モノではなく無形の価値を生み出すサービスやホスピタリティでは、全てのサービスが均質で同じである必要はない。


そもそも無形のものに均質とか同じという概念が成り立つのかという哲学的な問いも立てられよう。おそらく、サービスを提供する側も、サービスを受ける側も、モノ的世界観でそのサービスを理解していれば、そのサービスは名実ともにモノ的世界観のサービスとなる。この場合は、顧客は、均質的で同じサービスが存在すると信じているから、どのようなサービスを受けるのかが事前に予測できるし、かつ予測どおりのサービスを受け取ることで満足度が最大化する。そこに予想外の驚きはないが、モノ的世界観であればそれでよい。iPhoneをお店で購入してみたら、自分が予想していた製品とは全然違っていて驚いたということが生じたら、モノの世界では欠陥とか失敗ということになるのである。


一方、サービスを提供する側も受ける側もコト的世界観でそのサービスを理解していれば、1人ひとりに対するサービスは異なっていて当たり前という発想になる。非線形的なカオスのモデルや数式から新たな現象が創発するように、安定していない、1つ1つが異なる、何かが創発するといった現象は、欠陥ではなく、むしろ、サービス&ホスピタリティにおける「創造性」の源泉だと考えられる。つまり、「伝説のサービス」「真実の瞬間」はそこから生まれるのだと思われるのである。これが、工業製品を模したモノ的世界観に基づくサービスとは異なるところである。製造される工業製品であれば、求められるのは全て同じ内容だから、伝説の1品が突然生まれるということはない。モノ的世界観が機械論的である一方で、コト的世界観に基づいたサービス&ホスピタリティはより人間的であり、自然や生命に近く、その本質は非線形性であると考えられるのである。


この非線形性を対人的な接客場面を例として用いて説明すると、人間同士の相互作用の中では、自分が誰かにやったことが何らかの形で跳ね返ってきて、それがさらに相手に対する振る舞いに影響するといったようなフィードバックループが生じる。さらに複数のアクターがそのプロセスに関わってくると、もはや線形性では説明できない現象となり、非線形性の特徴、例えば、カオスや複雑適応系が持つ特徴を生み出す。これは、自然現象や生命現象においても、さまざまな要素の相互作用によって非線形的な特徴が観察されるのと同様である。


この非線形性で重要なのが、全くのランダムな混沌状態ではなく、かといって線形性が想定するような整然とした秩序が存在するわけでもないという点である。強いて言えば、ランダムな混沌と整然とした秩序の中間のような振る舞いであって、その原因の1つが、各要素がある程度自律性を持って動きつつも、他の要素と相互作用を行なっているという点にある。例えば、顧客から見れば、どのようなサービスを受けるのかは大まかには予測できるが、実際に受けてみて、良い意味で期待を裏切られる(素晴らしい)おもてなしをされるということが起こり得る。サービスを提供する側から見ても、基本的にはお客様に対して提供するサービスの内容は決まっているとしても、実際にお客様と会ってみてから、アドリブで変える部分もある。それはどのようなお客様なのかによるし、その場になってみないと分からない面がある。


以上から、サービスやホスピタリティを機械的ではなく人間的な営みであると捉え、サービスやホスピタリティを提供する従業員とそれを受ける顧客との相互作用がサービスのクオリティを決定づけるのだと考えるのであれば、さらに言えば、サービスの提供者と受け手の両者を含むひとつの「場」としてそこに立ち現れてくる何かをサービスとして捉えるのであれば、非線形性こそがその本質であり、非線形性について深く理解することが、感動を呼ぶサービスや伝説のサービスを生み出すメカニズムを理解することにつながるであろう。

社会システムの全域化がもたらすヒューマニズムの危機

宮台・野田(2022)は、現代の社会が「安全・快適・便利」を追求してきた結果として、「汎システム化=社会システムの全域化」が進行しており、それが、伝統的な「生活世界」を侵食しているが故に、私たちは多くのものを失いつつあると論じる。そして日本をはじめとする世界各国で「社会の底が抜けた状態」が進んでいるという。それはどういうことかというと、現代社会において、「安全・快適・便利」を追求する人々の合理的な判断と行動が集積した帰結として、孤独死や人間関係の希薄化、感情の劣化などに示されるように、私たちの人間性の喪失すなわち「ヒューマニズムの危機」が訪れているということである。

 

宮台・野田の主張が理論的に依拠しているのは、社会学における社会システム理論である。社会システム理論は、ウェーバーの枠組みを出発点としてパーソンズらによって打ち立てられ、その後ハーバーマスの展開を経てルーマンによって高度な理論枠組みに彫琢されたものであり、社会システム理論によって社会変容のメカニズムやプロセスを理解することが可能になるという。宮台・野田は、ハーバーマスルーマンによって提唱された「生活世界」と「システム世界」を対立概念と捉える。

 

宮台・野田によれば、生活世界とは「地元商店街的」なもので、関わる人々は顔見知りであってそこでのコミュニケーションは顕名的・人格的・履歴的であり、共同体意識・仲間意識を基本とする慣習やしきたりを重視する。一方、システム世界は「コンビニ的」なものであって、関わる人々やコミュニケーションは匿名的・没人格的・単発的であり、慣習やしきたりではなくマニュアルに従って役割を演じることが重視される。生活世界では人間関係が全体的・包括的であって善意と内発性に従って行動するのに対し、システム世界では人間関係は部分的・機能的なものであって損得勘定だけで行動する。

 

では、宮台・野田が主張する、社会の汎システム化=社会システムの全域化とはどのようなもので、なぜ起こっているのだろうか。まず、私たちの社会の「安全・快適・便利」が高まってきたのは、市場経済という社会システムが発達し世界に普及したという要因によることが大きいことを理解しておく必要がある。そして、市場という仕組みに支えらえれるシステムが世界に普及することによってもたらされるのは「過剰流動性」と「入れ替え可能性」である。例えば、市場では価格という統一基準が定まればさまざまなものが価格を基準に交換可能となるから、モノや人の流動性が高まるのである。また、価格が唯一の交換基準となるから、取り替え可能性も高まるのである。

 

市場経済を中心とする社会システム化が進行することで「安全・快適・便利」の度合いが高まっていく。そしてさらに社会の「安全・快適・便利」の度合いを高めようとするのは人間の合理的な判断・行動であって、その結果、システム社会の全域化が進展する。このような社会システムの普及・汎化もしくは全域化は、一見するとそれは私たちの暮らしを豊かにしているように思う。しかしそれは同時に、私たちがそのようなシステムへの依存度を高めていることを意味している。たとえ最初は、自律的に社会システムを「利用」しているに過ぎないとしても、次第にそれが、システムなしでは暮らせない状態に発展し、システムに依存するようになる。そして人々は次第にシステムの一部と化し、システムの奴隷になってしまうことを宮台・野田は示唆する。

 

このように、汎システム化の進行によって、社会と人間関係が本質的に変容している。生活世界が色濃く残る社会では地域共同体のかけがえのない一員であったはずの自分が、いつの間にかシステムが生み出す過剰流動性の中で、取り替え可能な部品になってしまったような感覚に襲われると野田はいう。「安定・快適・便利」を求める私たちの合理的な判断と行動の積み重ねが、人間同士の関係性を根本的に変化させ、私たちの精神的安定性を失わせているのである。短期的な便益を享受するために意図的にシステムに依存する自律的な行為が、気がつけばシステムなしには生きられない他律的依存に頽落しているのだ。

 

宮台・野田によれば、テクノロジーの進展は、世界レベルにおける社会システムの全域化に拍車をかけている。人々が、「安全・快適・便利」に対する強い欲求を持っている以上、この流れを止めるのは困難だという。社会システムの全域化によって生活世界の空洞やそれに伴う人間の感情の劣化も避けられない。感情が劣化し、システムの奴隷に成り下がることは、人間でありながら人間らしさや主体性を失い、単に快・不快といった動物的な性質に従って行動するようになる。そしてそれをテクノロジーやAIが巧みに利用することで人間を統治するようになるだろう。これはすなわちテクノロジーが神格化する一方で人間が動物化していくことを意味していると宮台・野田は警鐘を鳴らす。

 

では私たちはどうすれば良いのだろうか。宮台・野田は、構造的な問題の解決は容易ではないことを認めつつも、漸進的な変化による現実的な処方箋を重視する社会学の立場に立つ。そして、私たちがシステム世界やテクノロジーと共存しつつも、共同体自治を基本とする中間集団の充実を軸に、人間同士のつながり、人間らしさ、生活世界を取り戻すための幾つかの処方箋を提案している。

文献

宮台真司・野田智義 2022「経営リーダーのための社会システム論 構造的問題と僕らの未来 (至善館講義シリーズ)」光文社

 

 

価値獲得を基点にする利益イノベーション

川上(2021)は、企業には価値創造活動と価値獲得活動の両方によって持続的な存在が可能となるわけだが、企業の取り分を決める「価値獲得」から先に考えることによって利益イノベーションを生み出し、それによってさらに価値創造のイノベーションにもつなげていくというロジックを提案する。そのロジックを支えるのが、収益の多様化という発想である。収益の多様化という発想は、主要なプロダクトを通じて顧客への価値創造を行い、主要なプロダクトの適正な価格づけを通して利益を獲得するという伝統的あるいは平凡な考え方の枠をはみ出す発想であり、生み出した価値創造をベースとしながらも、主要プロダクトに限らずあらゆる形で自在に収益を生み、利益を極大化する方法を考えることである。

 

川上によれば、企業の取り分としての価値獲得から先に考える収益の多様化や利益イノベーションを実現することによってビジネスモデルを大きく進化させることが可能となり、それを通じて価値創造のイノベーションも実現できるようになると考えられる。収益の多様化を通じた利益イノベーションを実現するための要素としては、課金というコンセプトを軸にして主に3つあると川上は指摘する。それらは、1)課金ポイント、2)課金プレイヤー、3)課金タイミングである。利益イノベーションの要諦は、さまざまな課金の可能性を考えることで収益の多様化を企図し、多様化された収益機会をうまく組み合わせることでこれまで以上に利益が取れる、すなわち価値獲得が可能なビジネスモデルに到達することである。

 

課金ポイントは、現在の主要プロダクトのみを収入源と考えるのではなく、主要プロダクトを軸としつつも、その周りに課金できる機会が存在することを前提とした収入機会を探すことで収益の多様化を図る視点である。例えば、カミソリの替え刃やプリンターのインクのように、主要プロダクトを補完する付属品、消耗品、ソフトウェアのようなプロダクトからより多く課金するといったポイントや、主要製品を運ぶ物流やメンテナンス、保証など、主要プロダクトを補完するサービスから課金するというポイントである。このように考えれば、主要プロダクトの周辺に多くの課金ポイントが存在しうることが理解可能であり、かつ、主要プロダクトから利益をとらなくても、他の課金ポイントから多くの利益を獲得することさえ可能であることが理解できる。

 

課金プレイヤーの視点は、課金する支払い者として、自社のプロダクトを欲しがり、それに対して要求したとおりの対価を払ってくれる主要顧客のみならず、主要顧客に限定されない形で料金を支払ってくれるような相手を含んだ形で収益の多様化を試みるものである。主要顧客の外側にいる他の課金プレイヤーなど、新しい課金プレイヤーが見つかれば、さらなる課金ポイントを見つけたことになると川上はいう。例えば子供向けの映画に同伴して大人料金を払う保護者のように、主要顧客よりも多く支払う可能性がある課金プレイヤー、主要プロダクトに付随する広告掲載料を支払う取引企業などが挙げられる。テーマパークのファストレーンやネット販売のエクスプレス配達のように、重課金が可能な状況優先顧客も存在するだろう。

 

課金タイミングは、プロダクトを販売したら直ちに課金して収益を回収する伝統的な考え方のみならず、顧客から課金をするタイミングをずらすことも含め、課金のタイミングを多様化することを指す。例えば、支払い者の購入後の活動を知ることで、購入後に継続して課金してもらえるような仕組み(サポートやメンテナンスなど)を考えたり、会員制のようにユーザーが継続的かつ定期的に支払ってくれるようなサブスクリプション型の課金を生み出したりすることで、課金タイミングの多様化を図ることができるという。

 

川上によれば、上記の3つの要素を含む課金ポイントを考慮することでできるだけ多くの潜在的な収益源を認識し、それらの課金ポイントを組みあわせることでこれまでとは異なる価値獲得の生み方を作り出すのが利益イノベーションである。その際に重要なのは、いくら多様な課金ポイントを特定できたからといって、無作為で脈絡のない課金ポイントを組み合わせても意味がないということです。そうではなく、これまで以上の事業利益を長期的に生み出すための仕組みとして、ゼロベースで価値獲得を変革することなのだと川上は主張する。

 

例えば「フリーミアム」のビジネスモデルは、「無料」の力を利用して主要プロダクトを広範に普及させ、ユーザーに使用してもらう。そして、使い込んだユーザーのうち、ヘビーユーザーにのみプレミアムサービスを提供して課金する。「弱者から儲けず、強者から儲ける」というモデルを用いるマッチメイキングのプラットフォーマーの場合、出品側にのみ出店料などを課金し、買い手には課金しないという形態が多く、「特定の人からは儲けない」という方針を徹底していたりする。そして、サブスクリプション型の課金は、売り切りによって開発や製造コストを一気に回収するのではなく、薄く長く課金することで赤字のまま我慢を重ね、後になってからしっかりと利益を獲得していくというモデルなのである。

 

文献

川上昌直 2021「収益多様化の戦略: 既存事業を変えるマネタイズの新しいロジック」東洋経済新報社

VUCA時代の問題発見法

細谷(2020)は、VUCAという言葉に代表される先の読めない時代に必要なのは「問題解決力」ではなく「問題発見力」だという。なぜならば、安定している時代にはある程度問題がわかっているので、その問題を解決する能力が重要だが、不確実性が上がれば上がるほど、そもそも何が問題なのかを考えることが必要になるからである。よって、例えば、「与えられた問題を上手に解く」のではなく、「そもそもこれは解くべき問題なのか」と考え、「解くべき問題はこちらである」と逆提案する能力が必要になってくるというのである。

 

細谷によれば、問題の多くは、時代の変化が旧来のものの捉え方と現実の間にギャップを生み出すことで生起する。例えば、VUCAによって変化している現実(例、デジタル化)が、昔から変わっていないルール(例、書類への押印)との間に歪みを生み出し、それが、あるべき理想像(例、デジタル技術の恩恵を受けた効率的な業務遂行)と歪んだ現実(例、業務遂行のために書類に押印が必要)とのギャップが問題となるわけである。そして、細谷は、こういった問題を解決するために具体的に変えるものを「変数」というアナロジーで表現している。

 

そこで、この変数という考え方を用いて、問題解決力と問題発見力の違いについて説明し、問題発見力を高めるためには「なぜ(Why)」を問うことが大切であることを解説しよう。まず、問題解決力とは、与えられた問題を解く力だと考えると、例えば以下のように問題が設定され、 a b_1が定数だとして、この問題において yを最大化する最適な変数 x_1の値を求めるというような作業が、問題解決のプロセスになぞらえることができる。

 y=a+b_1x_1
 

重要なのは、問題解決力は、「与えられた問題」を解決する能力であるから、下記の式は与えられたものとして疑うことをしないということである。 x_1が何であるべきかに集中するのであり、これは、What, When, Where, Whoといった、「個別対象」に着目しがちであることを示唆する。もちろん、問題解決のプロセスでは、 x_1を他の変数の組み合わせとして分解することで解きやすくはするだろう。しかし、最終的に最適な x_1を見つけ出すという問題の定義は変わらないのである。

 

では、上記の式に照らし合わせる場合、問題発見力とはどのように捉えることができるだろうか。細谷によれば、問題発見とは「新しい変数を考えること」である。であるから、上記の「与えられた問題」に対して、最適な x_1を探すことが本当に解くべき問題なのかと疑い、以下のように新しい変数 x_2を追加することが、解くべき問題を発見することだと考えられるのである。

 y=a+b_1x_1+b_2x_2  (b_1 \lt b_2)

 

上記のような式を見つけ出し、かつ、定数 b_2の値が b_1の値よりもはるかに大きい場合、最適な x_1を探しても yに対する効果は微々たることが予想されるため、それは解くべき問題ではないことが明らかになる。むしろ、最適な x_2を探すことが明らかに yを最大化することがわかるのである。これが問題発見力を示しており、上記の b_2x_2のように、いかにして適切な変数を見つけ出すかが重要なのである。

 

このような問題発見力にとって重要なのが、「なぜ(Why)」を問うことである。なぜ、 b_1x_1を追求する必要があるのか、他に重要な変数があるのではないのかと考えることで、新たな変数を探っていく。また、なぜ yに焦点を当てる必要があるのか、別の変数に焦点を当てるべきではないのかと考えることで、従属変数 yではなく従属変数 zを目的にすべきだというような発想に繋がるのである。

 

細谷は、Whyを問うことは、What, When, Where, Whoを問うことと本質的に異なることを指摘する。何故ならば、What, When, Where, Whoへの答えが、個別対象としての名詞の一言で終わるのに対して、Whyを問うことは、目的と手段の関係といったように「関係性」を問うことであるからである。であるから、What, When, Where, Whoが繰り返せないのに対して、Whyは、繰り返すことで関係性を拡張していくことができる。例えば、「問題とその原因」の関係について考え、さらに、「その原因をもたらす原因」というように、真の原因の発見(解くべき変数の発見)に迫っていくことができる。

 

よって、Whyを繰り返すことで「空に上がって」目先に見える事象を超える形で視野を広げていき、観点を様々に拡散させることで新しい変数を見つけ出すことができるのだと細谷は説明する。

文献

細谷功 2020「問題発見力を鍛える」(講談社現代新書)

情報論的生命観とは何か

生命とは何かという深遠な問いに関して、私たちの多くは、非常に素朴な見方をしがちである。それは、生命をパーツの集合体として機械論的にとらえるものである。この考え方が浸透し、臓器などの「生命部品」は交換可能な一種のコモディティと考えられるようになったと福岡(2017)は指摘する。このような考え方の出発点はデカルトだと福岡はいう。デカルトは、すべての生命部品の仕組みは機械のアナロジーとして理解でき、その運動は力学によって数学的に説明できるとしたと福岡はいう。その結果、動物の生体解剖が進み、身体の仕組みを記述することに邁進するようになったというのである。

 

しかし、上記のような素朴かつ間違った生命理解を修正するには、ミクロレベルの生命現象で何が起こっているのかを解明しようとする分子生物学の発展を待たねばならなかった。とりわけ、シェーンハイマーという科学者によって、生命現象が絶え間ない分子の交換の上に成り立っていること、つまり動的な分子の平衡状態のうえに生物が存在しうることが、明らかにされたのだと福岡は解説する。福岡はそこから「動的平衡論」を発展させたわけだが、彼はこの考え方に依拠しつつも、情報学的な観点からの生命観についても説明している。

 

情報論的な生命観の核となる考え方は、生命を自己複製可能かつ可変的でサステナブル(永続的)なシステムとして捉える際に、生命体を構成するタンパク質の構造を規定する「情報」がもっとも本質的な役割を果たしているという点である。タンパク質とはアミノ酸がいくつも連結した高分子化合物であり、生態を構成するアミノ酸は20種あり、その組み合わせが「情報」となる。その情報に基づいて生体の維持に必要なタンパク質を常に合成しつづけている動的なプロセスこそが、生命の本質を捉えているというわけである。

 

このような情報論的生命観を分かりやすく理解するための例として、福岡は、食べたものを消化するプロセスに着目する。素朴な考え方しかできない素人であれば、私たちの身体にはタンパク質が欠かせないから、食べ物に含まれているタンパク質を体内に取り込んで、不足するタンパク質を補うというような考え方をしがちである。しかしそれは間違った考え方である。食べ物は生物(生命)であったものの一部であり、私たちは端的にいえば他の生物を食べている。であるから、食べ物に含まれるタンパク質には、元の生命体を構成していたときの情報がぎっしりと書き込まれていると福岡は説明する。

 

もし、他の生物のタンパク質がそのまま私たちの身体の内部に取り込まれれば、他者の情報と私たちの情報が衝突し、干渉しあい、アレルギーや炎症や拒絶反応などの様々なトラブルが生じる。これらの反応はすべて生体情報同士のぶつかり合いである。では、私たちはどうやって体内のタンパク質を得ているのか。それは、消化の仕組みをミクロな分子生物学の視点から理解すれば分かってくる。実際に行われているのは、食べたものの中にあるタンパク質が、消化酵素の働きによって、その構成単位であるアミノ酸にまで分解されてから体内に吸収されるということである。

 

福岡の例えでは、タンパク質が「文章=情報」だとすると、アミノ酸は「文字」である。文字によって情報は生まれるが、文字自体は情報ではない。つまり、生命体は、口に入れた食べ物をいったん粉々に分解することによって、そこに内包されていた他者の情報(タンパク質=文章)を解体する(アミノ酸=文字)ということなのである。食べたものが消化され、アミノ酸として体内に吸収された瞬間には、食べ物に含まれていた生体情報は消失し、ばらばらになった文字だけになる。そして、体内で、これらの文字を組み合わせることによって自分自身の情報を作り出すことが行われる。これが、生体内でのタンパク質の合成である。

 

以上の説明をまとめると、私たち生物は、口に入れた食べ物に含まれるタンパク質をそのまま自分の体内のタンパク質として加えるのではなく、いったんアミノ酸のレベルにまで分解してから、体内で吸収したあとにそのアミノ酸を使って新たなタンパク質として合成している。情報論的生命観を理解すれば、なぜ私たちがそんな面倒くさいことをしているのかが理解できる。自分の生体に必要なタンパク質を作る情報は自分が維持している。そこに他者の生体情報が入り込むと衝突してしまう。だから、生体情報のない文字レベルにまで粉々にされたアミノ酸を取り込んでから、それを材料として、自分自身が保持している情報に基づいて自分の体内に必要なタンパク質を合成しているということである。

 

福岡によれば、私たちの身体は数か月で全部入れ替わってしまうほど、分子レベルでは高速に、体に分子を取り込んでは別のものを体外に排出するというような生体分子の入れ替えを行っている。そのプロセスを維持するために、毎日食物を食べる必要があるわけだ。それを理解できれば、生物をミクロな部品からなるプラモデルのように捉える機械論的な考え方がいかにお粗末な考え方であるかが分かるのである。

文献

福岡伸一 2017「新版 動的平衡: 生命はなぜそこに宿るのか」(小学館新書)