「こころ」はどのように進化してきたのか

「こころ」は人間だけが持っているのか。それとも動物も持っているのか。将来「こころ」を持つロボットが登場するのか。このように「こころ」とは何かに関する疑問は尽きることがない。ダーウィンの進化論が正しいとするならば、「こころ」も進化の産物であり、人間のみが「こころ」を持っていると考えるのは不自然となる。人間に近いサルや犬は「こころ」を持っているが、カエルは単に環境に適切に反応する精巧で複雑な生物機械であって「こころ」は持っていないと言えるのか。そうだとすると、どこに境界線があるのか。いったいどのように考えればよいのか。


進化論的発想に従うならば、私たちに「こころ」があるのは、それが生き残るために有利だったからである。つまり、私たちは、環境に対応しながら、生きるためにあれこれ考えて行動するわけである。そしてなぜそのような行動をするのか知っている。そのようなこころの働きは、もっとも単純な「原型」のようなものがあって、それが長い時間をかけて進化してきた結果だと考えられる。この点について、デネット(2006)は、脳の設計についての単純化された枠組みとして「生成と選択による進化階層」を提唱している。環境に対応して生き残ることが進化論的にみたこころの本質だとするならば、デネットは、単純な階層から新たな階層が加わるたびに、その段階にある生物の動きはより良く、効率的になっていくと説明する。


デネットによれば、最初の段階として出現したのが「ダーウィン型生物」である。ダーウィン型生物は、遺伝子の新しい組み合わせや突然変異によって生化学的構造が異なる生物の表現型の予備軍が現れ、その中から、自然淘汰によってもっともすぐれた設計を持った表現型が選択され、選択された表現型の遺伝子が増殖することで、その表現型が生き残るというプロセスを続ける段階である。このプロセスが何百万回も繰り返され、設計の優れた動植物が数多く生まれたのだとデネットはいう。


ダーウィン型生物の次に出現したのが「スキナー型生物」である。デネットによれば、ダーウィン型生物の段階における自然淘汰の進化プロセスが繰り返されるうちに、「表現型可塑性」という性質をもった生物が出現した。これは、個々の生体の設計が誕生時にすべて決定されているわけでなく、環境からの自然選択のプロセスに対応して調整される特徴を持っている。これらの生物は、さまざまな行動を生み出しては1つひとつテストをして環境に立ち向かい、生存に役に立つものを見つけ出す。生存に役に立つ行動は強化され、その行動が強化された生物が次世代を担う。つまり、スキナー型生物は、いろんな行動を盲目的に試行錯誤し、うまくいく行動を強化していった生物が自然淘汰をくぐり抜け、生き残っていくわけである。


スキナー型生物の次に出現したのは「ポパー型生物」である。スキナー型生物の場合、試行錯誤の行動を行っているうちに自分の行動の誤りが原因で死んでしまうことがある。それに対し、ポパー型生物は、様々な行動の選択肢を事前に検討する内部的選択環境を持っている。つまり、行動を実行する前に、生体内部で思考実験もしくはシミュレーションをするのである。そのようなプロセスにおいて、愚かな行動は選択肢から消去され、安全だと思われる行動のみを実行する。よって、ポパー型生物は、スキナー型生物のように、愚かな行動を実行して死んでしまう危険が少ないのだとデネットは説明する。体内に知恵が蓄積されており、頭の中でその知恵を使って行動を事前にテストすることができるというわけである。


そして、ポパー型生物のつぎの段階として出現したのが「グレゴリー型生物」である。ポパー型生物が、内部に情報を蓄積してそれを用いて選択肢の事前選択とテストを行うのに対し、グレゴリー型生物は、先祖や自分たちによって先に構築された外部環境の一部から情報を取得して用いるので、より高度な事前選択やテストができる。つまり、生存のために道具を使うようになったわけである。そのような道具の中で最も優れたものの1つが、こころの道具すなわち「言語」であるとデネットは指摘する。グレゴリー生物の段階になって、文化的環境の中から心的道具(言葉)を持ち込み、外部の情報を利用できるようになったことによって知性は飛躍的に高まったとされる。他者が考案し、改良し、変形させた心の道具を使って、知恵を具体化し、次に考えるべきことについてより良い考え方を学び、より深く限界のない内省力を生み出したのだとデネットはいう。