バルトによる「主体」の攻略

難波江・内田(2004)によれば、バルトは、西欧において不可疑とされてきた「主体」という概念を、攻撃的に攻略しようとした。それは「私は私がいま語っている言葉の主人ではない」という発想である。例えば「書く」という行為は、あらかじめ頭の中にできあがっている抽象的な「言いたいこと」を「言葉に変換する」という単純な行為ではなく、「言いたいこと」がせき止められ、「言う気のなかったこと」が紛れこんでくる不随意なシステムだという。よって、私たちは、自分の書く文章を自由にあやつれる主人とはなりえず、必ずや「書かれたこと」は、「言い足りない」か「言い過ぎる」結果に終わってしまうのである。


バルトによれば、「使うことができる」言語資源として「ラング」が、「使わずにはいられない」言語感覚としてスティルがあり、両者は私たちの言語運用に深く関与している。そして、ラングとスティルの切り結ぶ結節点に「エクリチュール」があり、ラングもスティルも人々は主体的に選択することはできないが、、エクリチュールは主体的に選択することができるという。エクリチュールとは、ある社会的集団が「正しい言葉の使い方」として集団的に承認したものである。私たちは、どのエクリチュールを選ぶかにおいては主体的に自由になれるが、いったんエクリチュールを選んでしまえば、惰性化し、そのエクリチュールによってしか語ることができなくなるという意味において自由ではなくなるという。


バルトのテキスト論は、書かれたものとしての記号が含む豊かなカオス性、多義性をいかに賦活させるかに主眼が置かれていると難波江・内田は解説する。例えば、バルトに言わせれば、文学的テクストに作者はいないし、起源もない。テクストはその名のとおり「織りあげられたもの」であり、製作者が不在のまま、さまざまなものが混在してきて、絡まりあい、いつしか一枚のテキスタイルが織りあがる。終わることのない絡み合いを通じて、自ら生成し、自らを織りあげていくというプロセスにより主体は解体するのである。インターネットでもそうであるように、不特定多数の人が書き込んでいくことによって、主体が不在のまま、テクストは増殖していく。この様子は、創造主や単一の統制者なきまま、各構成要素の自発的な振る舞いによって絶えず自己組織化するがゆえに、未来の予測が極めて困難な「複雑系」のシステムにも似ているのである。