研究者のキャリア


研究者の多くは、ある一定のルールに従って蓄積させる「知識」の体系に、インクリメンタル(追加的)に貢献することを仕事としている。ある一定のルールとは、かなりユニバーサルなものもあれば、一定のパラダイムに支配されているものもある。一定のパラダイムというのは、研究成果として知識を蓄積していくにあたっての大前提となるものであって、このパラダイムにしたがって、各研究者が、ある意味、部品としての知識を1つ1つ積み上げていくプロセスをさして「ノーマルサイエンス」とよく言われる。これに対して、とりわけ秀逸な天才が現れて、一歩一歩積み上げている知識の屋台骨であるパラダイムそのものを覆してしまうことがある。これをパラダイム変換と呼ぶことが多いが、これができる研究者はごく少数である。そういった研究者の著作は、本1冊であるかもしれないが、後世に語り継がれるほど影響力の強い成果となる可能性は十分にある。


しかしながら、ノーマルサイエンスとしての知識体系の充実にインクリメンタルに貢献している大多数の研究者にとって、本人たちの研究成果は、それ自体がどれだけすばらしいものか、どれだけ実践の役に立つものかと聞かれても、それ自体ではあまり意味のないものであると言わねばならない。なぜならば、それらは、知識体系全体を構成する1つの小さな部品にすぎないからである。しかし、ごく小さな部品であったとしても、それが積もり重なることによって、優れた知識体系が構築されていくわけであるから「たかが部品、されど部品」なのであって、その部品づくりに精魂つくすことはむしろ研究者に求められう使命だといわねばならないだろう。優れた車は、それを構成する部品1つ1つに手抜きがなく、精巧に作られているからこそ、すぐれた性能を発揮するわけである。


経営学に関しても、一人一人の研究者が行なっている研究の成果は、それ単独でどれだけ経営に深い示唆を与えるか、どれだけ企業の繁栄に貢献するかどうかと聞かれてもそれは疑わしい。しかし、数多くの研究者が力をあわせて、そういった細かい研究をしているおかげで、そういった無数の成果が積み上げられてできてきた大きな知識体系=経営学を、全体から眺めるならば、それは企業経営の役にたつすばらしいものであることを願って、日々、些細な、けれども大切な研究を行なっているわけである。何度もいうように、各研究者は、優れた知識体系を構築するための部品となる研究成果を日々、蓄積しようと努力しているわけであるが、部品であるがゆえに、そのインターフェース、つまり、他の部品との結合関係にとても気を使わなければならない。つまり、これまで蓄積されてきた知識に、どのような形でジョイントするのか、また、関連する諸研究とどのようなかたちでつながっていくのか。このインターフェースが雑であるならば、すぐに磨耗してしまったり、故障してしまう部品と同じである。部品というのは、他の部品と滑らかかつ精確にジョイントされることによって威力を発揮するわけであるから、個々の研究者が行なう研究のインターフェース、すなわち方法論なり論文のスタイルなりが、とても重要になってくるわけで、この職人的技術を身に着けるために、博士課程などの長い下積み期間を必要とするわけである。


ただし、部品といっても、全体設計を担当する完成車メーカーの下に整然と部品メーカーが組織化されているというようなイメージではなく、むしろウィキやリナックスのように、オープンで自由参加型である。したがって当然、経営学および特定の分野について、どの方向性が適切なのであろうかということについて、全体設計を手がけて上から指示するものはおらず、時にはパラダイム間の論争も起こりうるし、部分的には過去の研究成果が新しい成果によって塗り替えられるということも起こる。一定のパラダイムのもとでは比較的安定しているインターフェースすなわち方法論も、日々改善・改良の努力がなされ、漸進的に進化していく場合も多い。オープンであるがゆえに、世界中から、経営学の体系作りに参加しようとする研究者が集結することにつながる。全体的には望ましい傾向だともいえるし、個人的には非常に競争が激しいので、自分自身の差別化を図るために、非常に狭いニッチ分野を手がけなければいけなくなるということも起こりうるのである。