キャリア論の本質


キャリア論の究極は、処世術である。つまり、この世の中を「なんとか生き抜いていく」ことこそ、キャリアである。この世に生を受けたからには、持って生まれた運命がどうであろうと、その生を全うするのが私たち人間の使命なのであり、処世術とは、表面的な職業はなんであれ、とにかく生き抜いていくための方法なのである。


そう考えると、自分がなりたい職業はどうだとか、その職業に就くためにはこんなスキルが必要だとか、今の仕事でステップアップするにはこんな勉強をしなければならないとかいった話は、非常に表面的なのである。


時代や環境は変化するものだし、どんなに将来性があると思われた仕事でも、どんなに成功をとげた人でも、ひとたび環境が変われば窮地に陥ることだってあるのだ。だから、一番大切なのは、窮地に陥ってもなんとかピンチを切り抜ける術であったり、どんな仕事をやることになっても、それをやりきってみせる度胸とか勝負強さだったり、たまたま業績がよかったり成功が続いたりしても決して慢心せず平常心を忘れなかったりすることなのである。


もちろん、自分の生を全うするためには、生きる目的はなにかとか、その目的を満たす職業は一体何なのか、つまり自分はどんな職業に向いており、どれが天職なのか、といったトピックは重要ではあろう。しかし、一歩も前進することなく、頭でそういった問題をあれこれ悩んでいても、それはあまり意味がないのではないだろうか。むしろ、生命をもった人間が持っている本能に忠実になってみることも大切だろう。それは、生きることへの執着であったり、敵に負けて滅ぼされないための闘争心だったり、自分だけではなく、家族や周りのコミュニティとともに生きていこう(共生)の本能だったりするのだろう。


人間なんてひとりで生きていくことなどできないことを十分承知のうえで、あるときは献身的に、またあるときは助けを乞うかたちで、格好いいところも、格好悪いところもさらけ出しつつ、仲間達と助け合いながら生き抜いていくための術を理解することが、キャリア論の本質なのではないだろうか。挫折知らずの成功物語を聞いてもいっこうに感動しない、また悲劇の連続で一生を終えた話を聞いても気が沈むだけである。人生楽ありゃ苦もあるさ、という水戸黄門の歌にもあるとおり、辛いことや悲しいことがあっても歯を食いしばってそれを乗り切り、嬉しいとき楽しいときは思いっきりそれを感謝することこそ、人間らしい生き方といえるのではないだろうか。


「生き抜く」ということをキャリア論、処世術の1つのキーワードとするならば、そこから連想的に出てくるキーワードは、逆境にも強く、そう簡単には砕け散ってしまわない「しぶとさ」であり、何事にも気を抜かずに精一杯毎日を暮らしていこうとする「真剣さ」であり、物事を悲観的にとらえず、悲観的に準備はするにせよ、何事もうまくいくようになると楽観的にとらえ、常に夢や希望を失わない「あかるさ」なのであろう。



水戸黄門の主題歌
「あゝ人生に涙あり」(作詞・山上路夫)より
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