論文を書くということ

みなさんの中には、卒業論文ならいざしらず、5〜6枚のレポートないしは論文を書くことすら嫌がる人もいます。おそらく、その程度の文章であってもとてもつらいのでしょう。しかし、最終的には卒業論文を仕上げること、そしてその途中で、このゼミや他の講義でさまざまな論文やレポートを書くことは、社会に出てから最低限必要とされる文章力を身につけるために絶対必要なことだと思っています。


卒業論文を書かずして卒業することも可能なようですが、それすらやらずして大学を卒業して、社会で役立つ能力を身につけて卒業できたと胸を張っていえるのかはなはだ疑問です。卒業論文を書かないで卒業していく人たちの中には、もともと国語力、文章力がある人もいるでしょうが(そういう人はじっさいは卒業論文を書くと思いますが)、そうでない人にとって、論文(卒業論文)を実際に書いていくという作業以外に、論理的思考力や文章表現力、それに基づくプレゼンテーション能力が上達する効果的な訓練があるのだろうかと思うくらい、私の中では卒業論文は大切だと思っています。


短い枚数の論文を書くことすら苦痛である気持ち、実は私もよく分かります。実際、私が留学していたときは、たった10枚程度のレポートを英語で書くときはとても苦痛でした。最終的には100枚以上の論文を書いたわけですが。もちろん、いまでも英語で文章を書くのはとても遅いし、はっきり言えば苦痛です。苦痛だったら書かなきゃいいのにと思うかもしれないけど、それが必要だと思っているのでやっています。


英語力がないので、書きたいことがなかなか書けないのです。最初の頃は、一行書くのにどれだけ時間を消費したことか。何かが思い浮かんでも、それを文章として表現できない。日本語でまず整理してそれを英語に訳すという手もあるが、そもそも言語のシステムが違うので、直訳してもこなれた英語にならない。しかも、私がいたのは小中高でも学部でもなく、博士課程。小学生が作文で書くような文章が許されるわけがありません。


上のことを、英語を日本語に置き換えて、そっくりそのまま、論文やレポートが苦手な人々に当てはめることができるでしょう。つまり、国語力が無いから、これまで十分に国語(読解や作文)の訓練をしてこなかったから、書きたいことが書けない。思うように文章で表現できない。いくらイメージとしてアイデアが浮かび上がったとしても、そのまま文章という形で表現できるわけではない。よってなかなか前に進まず、枚数が書けない、ということになるでしょう。


しかし、これは苦痛であっても、コツコツとよりよい文章を書くように努力を重ねていくしかないでしょう。そして、それ以前にたくさんの見本となる文章を読む必要もあるでしょう。要するに読書です。当たり前ですが、読書は大学生の主な仕事の1つです。バイトのレジ打ちよりもずっと大切だと思います。レジ打ちがたいした仕事ではないと言っているのではありません。高校卒業後、働くことを選ばず、大学生として勉強することを選択したんでしょう。だったら、大学生としての勉強は何よりも優先されるべきでしょう。文章を書くさいには、とにかく原稿を何度も何度も書き直すしかないでしょう。1度書き直せば、前に比べて少しは改善されているはずでしょう。少ししか改善されないのであれば、書き直す回数を増やすことによって、改善される部分も大きくなるでしょう。つまり、書き直せば書き直すほど、文章はよくなっていくということです。


論文やレポートを書くこと、卒業論文を制作することって、いったい何の役に立つんだ、と思うかもしれません。しかし、このゼミでもしばしば言っているように、論理的にものごとを考え、きちんとしたリサーチをし、要点を簡潔にわかりやすくまとめた形で文章にすること、つまり文章によってプレゼンテーションを行なうことは、社会人になってとくに重要なスキルなのです。


そして、卒業論文は、単に文章力や表現力を身につけるだけのものではありません。卒業論文を仕上げるためのリサーチや執筆を通じて、論理的に深く思考する能力、自分自身で適切なテーマを探し出し、それに能動的・自律的に取り組む能力、設定したテーマや、それに関する文献を通じて、物事を適切な形で理解し、体系的にまとめ、的を得た問題を発見、設定するという能力、そしてその問題に対して的確にアプローチしていく能力、つまり物事の本質を見分け、物事を良い方向に改善していく能力も訓練することになります。すべて、社会人として、あるいはこれからの生活全般で必要な総合的な力なのです。