会社という存在

私は30年以上前に日本の大学を出てすぐにアメリカの大学院に留学したのですが、留学した当初、日本の会社から派遣されてきた留学生同士が、おたがいを「三菱商事さん」とか「八幡製鉄さん」とか呼び合っていたことに、ひどく驚いたということです。
(岩井 2005:13)

「法人とは本来はヒトではないけれども法律上ヒトとして扱われるモノである」という趣旨の定義でした。私は、本当にびっくりしました。
(岩井 2005:15)

若い頃の「びっくり経験」から始まる「会社とはいったいなにか」にかんする岩井説によれば、本来、近代社会は、「ヒトがモノを所有する」「ヒトがヒトを所有したり、モノがヒトを所有してはいけない」という大原則を基礎としているにも関わらず、「法律上ヒトとして扱われるモノ」として会社(法人)が定義されるところに根本的な問題があることを指摘する。


岩井説によれば、日本の場合、「三菱商事さん」「八幡製鉄さん」のように、会社をヒトとしてとらえる向きが強い理由は、株式持合などを通じて、「ヒト」としての法人が、「モノ」としての自分自身を、「間接的に」所有してしまうところにある。会社が本来、ヒトとモノの両方の性質を兼ねそろえているとしても、自分で自分自身を所有してしまえば、だれかに所有される(つまり支配される対象としての)モノとしての性質は消えてしまい、会社はヒトになってしまうのである。


簡単に売り買いの対象となり、株主に所有(支配)されるモノとしての性質が強い会社であれば、会社のオペレーションは、株主の意向に沿うべきものとなる。それが、アメリカ型の経営である。しかし、ほかの誰からも所有されない、ヒトとしての会社であれば、会社のオペレーションが依拠するところは、社会に貢献するべき市民としての倫理性となる。しかし、会社はあくまで法律上のヒトであって、ほんとうのヒトではないから、会社というヒトから信任を受け、実際に会社としての行為をおこなう(ほんとうの)ヒトである経営者(決して株主から経営を委託された代理人ではない!)の倫理性が問われるわけである。