権威と知

情報化、高度化、複雑化が進む現代では、ひとりひとりがすべての事項に対して適切な判断を下すことは不可能になっている。そこで役割を果たすのが「権威」である。知の権威のいうことは正しい、権威の言うことだから信じよう、というように「権威」の言動を、自分に欠ける判断能力を補い、信頼する拠り所としながら日々を生活するわけである。


ところが困ったことに、このような状況になると、権威が権威をさらに増強するスパイラルが働きやすい。権威になる人は、それなりに重要な成果をあげてきた人であるには違いない。しかし、権威と目されている人物が、準権威(これから権威にならんとしている人物)の言動を絶賛したり、逆に準権威が権威を絶賛するようになってくると、それらを目の当たりにする一般市民は、権威が絶賛した人物を新たな権威として判断の拠り所とし、新たな権威があがめる権威者はいちだんと崇高な存在となる。このようなことが起こると、お互いをほめ合う権威同士の強固なネットワークができあがり、もはや誰も入り込む余地をなくしてしまう。


問題なのは、権威の言うことが本当に正しいのかどうかを判断できる人がいない、あるいは権威の言うことを批判できる人が入り込む余地がない場合である。大衆が権威の放つオーラに酔いしれてしまえば、批判的なことを言う小者には全く耳を貸さなくなる(たとえ小者が正しくても!)。そうすると、権威の言うことが間違っているとしても、それにはお構いなしに人々は権威をあがめ、権威を信じ、権威の言うとおりに行動するのである。その行く末は。。。


これは、以前ふれた「自己成就する理論」のメカニズムにも似ている。

この「自己成就する理論」の理論が正しいとするならば、どんなことが言えるだろうか。それは、世の中に影響を与えることができる人が発する理論は、正しいものとして世の中に受けとめられる可能性が高まるということを示唆する。例えば、為替相場に非常に強い影響力を持つ人が「円高になる」と予測したら、本当に円高になってしまうようなものである。あるいは、理論が正しい間違っているではなく、どれだけ社会に浸透させることができるかが、理論を「正しいもの」として社会に受け止められる確率を高める、ということになってしまうのである。
http://d.hatena.ne.jp/sekiguchizemi/20050218