勉強するということ

事業を起こして間もない頃、要領がわからなかったり、怪しい人に騙されたりして大損することがある。これをさして、人はよく「勉強させてもらいました」という。この表現は、勉強とは、「痛い思いをすること」「苦しい思いをすること」によって、最も効果が出るという本質をあらわしているのである。


勉強というと、机の上に座って何かをやることかもしれないけれど、のほほんとやっていたのでは勉強したことにならないのである。スポーツで筋肉を鍛えるときも、軽いおもりをつかって涼しい顔でトレーニングをしても、筋力がつくわけがないのと似ている。トレーニング中は、みな苦しい顔をしているのである。


高い授業料を、自腹を切って払うことこそ、勉強の第一歩なのである。教科書が高い!と思っても、その教科書を、バイトで稼いだなけなしの金をはたいて買うのが、勉強の第一歩なのである。親に授業料を払ってもらっている場合も、それを負担している親の痛みを自分も感じてこそ、勉強の第一歩を踏み出すのである。


泣きたくなるくらい高い金を支払って、その間、のほほんと暮らすことができようか。なんにも勉強しなくて、遊びほうけて、そのお金をドブに捨てるような行為などできるはずがない。だから、勉強しないのは、授業が面白くないからだ。環境が悪いからだ、とかいっているあいだは、勉強の第一歩さえ踏み出していないのである。