理論化、もしくはそのプロセスで生じる「仕掛品」としての理論は、決して終わることのない、世界を理解するための人々の試みであると解釈できるのではないだろうか。ワイクの理論に関する考え方も、そのような視点を反映しているように思える。理論、もしくは論理的なつながりによる世界の説明は、世界を理解するためのツールにすぎないわけであって、世界そのものではない。論理は、人間の生み出した実に優れた世界を理解するための道具であるが、世界が論理で成り立っているとは言えまい。つまり、世界そのものには論理構造などないわけで、論理構造とはあくまで人間が生み出したものであるというわけだ。論理や計算によって得られる見解や予測と、実際にわれわれが経験する現象との相性が非常によいとわたしたちは認識しているのである。例えば、緻密な論理と計算に基づいて宇宙船を宇宙に向けて打ち上げると、計算どおりに月に着陸することを人間は成し遂げるに至った。このように、論理構造を用いて組み立てられた理論は、人間がつくりだした世界そのものの模型(もしくは設計図)であると考えることもできる。そういったツールは、人々の努力によって、より精巧なものに改善もしくは代替されていくであろう。パラダイム論の考えを借りれば、理論はさらに新しくかつ世界をよりうまく説明できる理論にとって代わられるために存在しているといってもよい。であるから、いかなる書物や理論も、完成されたモデルを提示しているとはいえないわけで、未完もしくは中途のものであると解釈してよかろう。