インパクトのある仕事をするための編集思考

佐々木(2019)は、編集を「セレクト(選ぶ)」「コネクト(つなげる)」「プロモート(届ける)」「エンゲージ(深める)」の4つのステップによって、ヒト・モノ・コトの価値を高める行為だと整理し、すべてのビジネスパーソンが編集思考を身に着ければ、日本はもっと面白くなる、すなわち編集思考こそが、日本と日本人の未来を作ると指摘する。つまり、編集とは、ヒトやモノやコトのよいところを「外に出して」、何かとつなげて、新しい価値を「生み出す」手法であるから、あらゆる企業がイノベーションをお越し、新規事業を開発するための技術でもあり、あらゆる人々が自分らしいキャリアや人生を紡ぎ出すための道具なのだと論じる。

 

佐々木は、「経済×テクノロジー×文化」を軸に、横串で多彩な価値を生み出す編集思考を駆使する個人が増えることが、日本の希望になるという。「経済×テクノロジー×文化」は、「社会科学×自然科学×人文科学」とも置き換えられる。佐々木によれば、編集とは「素材の選び方、つなげ方、届け方を変えることによって価値を高める手法」だと定義できる。この定義は、冒頭で紹介した「セレクト(選ぶ)」「コネクト(つなげる)」「プロモート(届ける)」「エンゲージ(深める)」の4つのステップと関連している。

 

最初のステップである「セレクト(選ぶ)」では、他の人にはまだ見えていない価値を発掘するために、物事の良いところだけを見て惚れ抜き、惚れた対象を見極めるために、対象に惚れた「直感」を現場と論理と他人の目によってダブルチェックし、自分と共通性が高く、距離を近づけやすいタイプのものと、自分とはほとんど共有するものはないというものという両極をあえて取りに行くことの重要性を佐々木は指摘する。

 

次のステップである「コネクト(つなげる)」では、「古いもの」と「新しいもの」をつなげる、「縦への深堀り(専門性)」と「横展開(教養)」でつなげる、異業界や大企業とスタートアップなど文化的摩擦が大きいものどうしをつなげる、そして、アイデアを組織政治などによってつぶされないように利害関係をつなげることの重要性を佐々木は説く。

 

さらに次のステップの「プロモート(届ける)」では、実際に生まれたものをどう外に向けて表現するかを考え、適切なものを、適切な対象に、適切なタイミングで届ける方法を考える。その際、3つのTが重要だと佐々木はいう。1つ目のTは時間軸(timeline)で、絶妙なタイミングでうまくつなげた素材を届ける。2つ目は思想(Thought)で、たんなる思いつきではなく、深い思考を経て体系化された「ビッグアイデア」や「コンセプト」を届ける。スターバックスの「サードプレイス」が1つの例である。3つ目は、真実(Truth)で、嘘をつかないだけでなく、ありのままの姿を取り繕わずに伝えていく。

 

そして、最後のステップである「エンゲージ(深める)」では、顧客との関係を深めるサブスクリプションモデルのようなものを実現するために、4つのCというポイントがあると佐々木はいう。1つ目は、コミュニケーション(Communication)で、良質なコミュニケーションを通じて、2つ目のコミュニティ(Community)の形成につなげていく。リアルな場を持つなどして、関係性の深さと質を高めていく。3つ目が、一貫性(Consistency)で、エンゲージメントを高めるための信頼と共感を得るために、一貫性を大切にする。4つ目が、カジュアル(Casual)で、これからの世の中が、よりフラットで柔らかい関係がベースになることを踏まえる。

 

では、どうすれば私たちは、上記に挙げたような編集思考を身につけることができるのだろうか。それに関して佐々木は、「教養」「人脈」「パワー」の3つのリソースの獲得が重要だと論じる。教養とは、「最先端」と「普遍」の引き出しを多く持つことであり、自然科学の知+社会科学の知+人文科学の知を指す。つまり、「自然」と「社会」と「人間」をどれだけ深く知っているかということである。自然科学はつねにアップデートされるが、社会科学と人文科学は、普遍性が強く、古代からさして変わらない「人間」や「社会」の本質を見つめる必要があるという。

 

教養を現実に活かすための触媒となるのが、「人脈」だと佐々木はいう。とりわけ40歳を超えると、その最大の付加価値は「誰を知っているか」「無理を言っても仕事を助けてくれる知り合いがどれくらいいるか」になるという。人脈がないと、編集思考でよいアイデアを考えても、形にならないわけである。そのため、世代、業種、文化、性別を超えて、自分と異なる人とのネットワークを大切にすることが重要だという。そして、人脈とセットになるのがパワーであり、その源泉が権力と権威であるという。権力や権威があると、自ら決断して、他の人を動かすことができると佐々木は指摘する。

 

さらに佐々木は、「教養」「人脈」「パワー」を土台として編集思考を磨くために必要な行動として、「古典を読み込む」「歴史を血肉とする」「二文法を超越する」「アウェーに遠征する」「聞く力を磨く」「毒と冷静さを持つ」ことを挙げている。

文献

佐々木紀彦 2019「異質なモノをかけ合わせ、新たなビジネスを生み出す 編集思考」 NewsPicksパブリッシング

人生の成功を左右する不確実性マネジメント

田渕(2016)によれば、不確実性とは、将来の出来事に予測できな性質が備わっていることであるが、不確実性との向き合い方が人生の長期的成功を決めるくらい決定的に重要であるにも関わらず、不確実性は驚くほどに理解されていないと指摘する。人はいつも予想外に振り回され、予想外にとても弱いのだから、この予想外に対処する方法を学ぶこと、すなわち不確実性と向き合い、そこから生まれるリスクをいかに制御していけるかが決定的に重要だというのである。結論を先取りしていうならば、そのような方法とは「短期的な結果に振り回されることなく、長期的な成功の可能性を高めていくこと」だと田渕は論じる。

 

このような不確実性のマネジメントで第一に押さえておく必要があるのが、ランダム性についての理解だと田渕はいう。もちろん、現在においても、未来がどうなっていくのかを予測するための材料は存在する。それは容易に予測が可能な「すでに起きた未来」といえるが、本当の未来は、公式で表すと「未来=すでに起きた未来(予測可能な未来)+不確実性(予測不可能な未来)」となる。不確実性の比重がどれくらい大きいかは事象の種類によって異なるが(例、日本の将来の人口動態は予測が容易)、おおむね不確実性の比重は高いものだと考えたほうがよい。そして、まったくの偶然によって出来事の経過やプロセスが左右されるという不確実性を、ランダム性というと田渕はいう。

 

ランダム性という不確実性の特徴は、因果関係が存在せず、確率があって、確率に従って結果が生じるということだという。であるから、正規分布のような確率・統計の知識を用いれば、結果を予測することは不可能だが、確率は見積もることができるわけである。そして、確率的に記述可能な不確実性には、確率的に対処することが可能だと田渕はいう。絶対確実なことはないのだから、ランダム性の働きによって短期的には良い結果や悪い結果が出たとしても、長い目でみたトータルな結果で成否が判断できるように、長期的な成功確率が最大化するように意思決定していくということである。例えば、期待値を用いて考え、期待値を上回ったり下回ったりするリスクを測定し、とれるリスクの量を制御するというわけである。

 

ただ、ランダム性では説明できないもう1つの不確実性があると田渕は主張する。世界はランダム性以上に不確実なのである。それは何かといえば、株価の大暴落のように予想外の大変動がしばしば起こること、すなわち、ランダム性と正規分布を仮定すればまれにしか起きないと考えられる極端な出来事が、実際には頻繁に起きてしまうような不確実性であり、これは、ファットテールとも呼ばれる。このようなケースの多くは、確率分布が「べき乗分布」に従っており、べき乗分布の場合は、出現確率が期待値から離れていっても正規分布で想定するよりも下がり方がなだらかであり、正規分布ほどには低下しないために、それなりの頻度で起こることになるのだと田渕は説明する。

 

べき乗分布のように予想可能な明確な原因や兆候がなくても大変動が起こってしまうことがあるのがなぜかというと、ある結果が生まれたときに、その結果が原因となって結果が再生産されるという自己循環的なプロセスが存在するからで、これは、ポジティブフィードバックと呼ばれる。自己抑制的なネガティブフィードバックの場合は、極端なな事象が起こることを抑制して安定した状態に戻そうとする働きがあるのに対し、自己循環的なポジティブフィードバックの場合は、次々と結果が再生産されることによって予想だにしないような極端な結果につながってしまうのでる。フィードバック自体は因果関係で説明できるにしても、フィードバックには複数のパターンが存在し、そのどれになるかはランダム性に左右されるので、プロセス自体は予測可能なのに、全体としてみれば予測不可能ということになると田渕はいう。

 

上記のような予測困難な複雑性によって生じる現象の1つがバブルである。田渕によれば、バブルはいつか必ず弾けるが、いつ弾けるかは予測できない。ただ、バブルに乗ることで大きな利益を得られる可能性があるから、とにかく波がきたと感じたら、それが本当の波かどうかにかかわらず、とりあえずその波に乗ることを田渕は勧める。波(とおぼしきもの)が続いている限りにおいてはそれに乗り続ける。「音楽が鳴っている間は踊り続けよう」というわけである。ただその一方でバブルに踊らされず、冷静さと合理的な精神を失うことなく行動し続ければ、急激な逆回転が始まってバブルがはじけても手痛いしっぺ返しを防ぐことができるという。

 

そして、パターン化された失敗を生み出す人間の心理バイアスをよく理解し、失敗から学ぶことも大切だと田渕はいう。成功を過大視せず、自分を過信せず、予想外のことが起こることを想定し、予測が外れても壊滅的な状況にならないように常に注意を怠らず、失敗自体はおそれずにトライを繰り返していくことが重要だというのである。予測は外れて当たり前と考え、コンセンサスが得やすい予測は外れたときにパニックを生むので違う方向に大きく動く性質を持っていることを理解する。そして環境の変化に合わせて柔軟に戦略を修正していくことで、あたかも生命が長い時間をかけて生き抜き、人類にまでたどりついたような進化とにたようなプロセスを実現することが重要だと田渕はいうのである。正しいやり方の効果は長期的にしか現れないのだから、小さな失敗を許容しつつ、大きな失敗を避けることが重要だというのである。

文献

田渕直也 2016「最強の教養 不確実性超入門」 ディスカヴァー・トゥエンティワン

 

物理学的思考法とは何か

橋本(2021)は、日常的な出来事に関する様々なエッセイをもとに、物理学者が繰り出す究極的な思考法を紹介している。そもそも物理学の研究対象は、広大は宇宙から極小の素粒子まで想像を絶する世界であり、物理学者はそういった浮世離れした対象のことを毎日考え続けているため、一般とは異なる思考方法に熟達している。橋本はそれを「物理学的思考法」と呼ぶ。例えば「そこに牛が見えますね。ではまず、牛を球と仮定します」というのは物理学的思考法を揶揄する有名なジョークだそうである。

 

物理学的思考法では、物事を抽象化し、奇妙な現象が発生する理由を論理的に推察するところから始まるという。その際、あらゆる記述において、まず仮定を明らかにし、自分で仮説を立てる。そして、それを実証するために実験や観測をする。その際、計算に用いる法則を明示して、それに基づき計算を実行し、最後に計算結果の物理的解釈を述べる。自分の仮説が検証されると満足感を覚え、新しい現象を予言するというサイクルなのだという。

 

では、そのような物理学的思考法につながるような物理学とはそもそもどんな学問なのだろうか。橋本によれば、物理学とは、理系における究極論理の学問である。また、物理学はさまざまな極限状況から新しい考え方や見方を発見していく学問でもある。そこで前提となっているのが、昔、青山秀明氏が橋本の前で語ったように、物理学とは「宇宙が何からできているのか、どうやって始まったのか、それを数式を使って解き明かしていく学問」だということである。

 

つまり、物理学は、この宇宙で起こるあらゆる現象を数式にして、数学者が作り上げた微分積分などの概念を駆使し、現象の理由を解き明かしていくのである。橋本が高校時代に好きだった高校数学、そして矛盾しない論理だけを頼りに言語を作っていくような数学者が職業として行う数学ではない「高校数学」とは、実は物理学のことだったのだと橋本は気づいたそうだ。

 

であるから、とりわけ理論物理学者は、物理現象を表す数式から出発して、それを解くために変形する。その数式の背後にある物理現象がどんな風に起こっているのかを知りたいから、数式をいじっているのだと橋本はいう。いったん現象が数式化されると、その瞬間に世界が抽象化される。そして数式は独自のルールで自分勝手に動き出す。なぜなら、和の世界は、足し算や引き算のルールが決まっており、そのルールの範囲内で行ける場所が限られているから「動き」が見えてしまうのだという。

 

では、物理学者が物理学の世界にのめり込んで熱中する原因はなんだろうか。橋本によれば、物理学者は、視界に入るあらゆるもの、物質を、不思議だなと感じ、理解しようと努力する。実際、人間の思考はその身体に制限されている。しかし、体は空間的に束縛されていても、頭の中には広大な平野が広がっている。であるから、究極的な宇宙への疑問、それを解き明かそうとする思考は、そこへ行ってみたい、目で見たい、触りたい、という身体からの欲求なのだという。人間の身体は何万年と変化していないから、不変の研究テーマが人間にあるのだろうと橋本は述べる。

文献

橋本幸士 2021「物理学者のすごい思考法 (インターナショナル新書)集英社インターナショナル」

逆境をチャンスに変える「EDGE」とは

世の中は必ずしも平等、公平ではない。ジェンダー、人種、宗教、価値観、その他、様々な特徴などによって、社会において常に不公平かつ不利な立場に置かれる場合は数多くある。これらの状況では、スタート地点に立った瞬間から他人から偏見の目で見られ、不公平な扱いをされてしまう。そのような不公平な立場、すなわち「逆境」に立っている場合、それを克服して成功するためには「努力」を惜しまないことが重要だと思うかもしれない。もちろん、努力は重要であるが、努力したからといって逆境から逃れることができるわけではない。つまり、世間で不利な立場にいる場合は、がんばればそれが報われるというわけではない。正しい方向に努力を向けなければ意味がない。

 

ファン(2021)は、このように逆境に置かれている人々は、エッジ(EDGE)を効かせることで逆境をチャンスに変えることができるという。しかし、ファンの言うエッジ(EDGE)は、一般的な言葉(優位性)と言う意味もさることながら、Enrich, Delight, Guide, Effortの略語である。つまり、ファンの言うエッジ(EDGE)を獲得して逆境をチャンスに変えることができる人というのは、相手を豊かにし(Enrich)、楽しませ(Delight)、こちらが望む方向に誘導する(Guide)ことができるうえ、このサイクルを繰り返して、いっそうの努力を続ける(Effort)ことができる人だというのである。

 

まず、Enrichとして、相手を豊かにするような価値を明確にする必要がある。「あなたが価値をもたらす、相手が豊かになる。さらに、ほかの人も、あなたが価値をもたらし、そのおかげで自分も豊かになると思う」。この「さらに」があるかどうかがカギを握るとファンは言う。そのためには、自分の「基本材料」を活用して、自分だけが提供できる価値を見つけ出すことが大事だというのである。基本材料とは、ごく少数のとびぬけた能力であり、自分の強みと弱みを両方とも理解することで浮かび上がってくる。自分の基本材料を見定め、それらを1点もしくは数点に絞り、それらが最も輝く場所を見つけ、制約があってもそれを利用しつつ基本材料を活用することでエッジを立たせることができるというわけである。

 

次に、Delightとして、相手を楽しませるため、喜ばせるために必要なのが「驚き」「意外性」である。まずは相手を驚かせ、楽しませるからこそ、心の扉を開いてくれるとファンはいう。そして、驚いてもらうためには「ユーモア」が欠かせないという。無害な逸脱理論によれば、ユーモアは、普通とは逸脱したこと、それ自体は無害であることの両方が知覚されることで生じる。そのために、適度な準備として、予期せぬもの、意外なものを探し、固定観念を覆すものを考える。ただし、準備しすぎず柔軟に対応する。否定的なレッテルを貼られたとしても、ユーモアで覆ることも可能であるとファンは指摘する。また、ありのままの自分を見せ、真摯に人と向き合うことも大事だという。ありのままの自分を見せながら、場を読む能力を発揮して相手を驚かせ、喜ばせる。そして、相手を楽しませる工夫から、相手を豊かにする説明へと移っていけばよいという。

 

さらに、Guideとして、相手を楽しませ、相手を豊かにできることを証明したら、次は相手を豊かにすることである。その際、相手が自分の仕事と価値をどう認識するかを誘導することが必要となる。誰にとっても、自分らしさというのはダイヤモンドの原石である。自分というダイヤモンドの最も輝いているところをすべて相手に見せることで、相手の認識を望ましい方向に誘導する。そのためには、自分自身のことをよく理解すると同時に、他者が自分をどう見ているのかを理解することも重要だとファンは言う。そうすれば、誰もが固定観念や偏見、レッテルで人を判断していることが分かるだろう。けっして、他人の固定観念の言いなりになってはいけない。むしろ、偏見やレッテルに先手を打ち、他人の偏見を、こちらの有利になるように利用するが重要なのだとファンはいう。

 

そして最後がEffortである。相手を豊かにし、楽しませ、こちらが望む方向に誘導することができれば、いくら偏見や差別などの不利な状況に置かれていたとしても、自分のエッジを獲得することができる。そうすれば、断固とした決意をもって、そしてタフな精神を維持して、そのエッジを強化するための努力を惜しまなければ、どの努力は報われるはずだとファンは示唆するのである。まさに、逆境を利用して、不利を有利に変え、不利をエッジに変えていくこととが可能になるというのである。

文献

ローラ・ファン 2021「ハーバードの 人の心をつかむ力」ダイヤモンド社

 

イノベーションとは人々の行動が変容することである

内田(2022)は、イノベーションの本質とは、新しい製品・サービスを消費者や企業の日々の活動や行動の中に浸透させること、すなわち人々の行動を変容させることだという。であるから、単に新しいものを発明したり、技術革新によって新たな製品を作ることは、それが人々の行動変容に繋がらない限り、イノベーションとはいえないという。むしろ、人々の行動変容に成功することができるのであれば、自分で新しいものを作る必要さえないということである。誰かが作り出したものを利用しても構わないし、技術革新がなくても価値は創造できる。大事なのは、これまでにない価値の創造によって「顧客の行動が変わること」「顧客の暮らしを変える」ことなのである。

 

では、イノベーションを成功に導く要素とはなんだろうか。内田によれば、鍵となるのが、人々を取り巻く環境の変化や商品・サービスを利用する人の心理変化である。内田は、イノベーションを引き起こす源泉として、「社会構造」「心理変化」「技術革新」を3つのドライバーとし、その組み合わせを「イノベーションのトライアングル」と呼んでいる。社会構造とは、社会や業界の根幹を覆すような変化を指し、心理変化とは、消費者を代表とする市場参加者の行動、常識、嗜好の変化を指し、技術革新とは、自社の技術のみならず、業界や社会インフラの技術も含む。要するに「環境要因の変化を捉えたものこそが、イノベーションを起こしうる」「環境変化を自社の成長に繋げているからこそ、イノベーターに成りうる」ということである。

 

内田は「これまでにない価値の創造によって顧客の行動が変わること」として定義されるイノベーションについて、上記のトライアングルによりドライバーを捉え、これらを梃子にこれまでにない新しい価値を創造し、その新しい価値が顧客の態度を変え、さらには顧客の行動を変えるというプロセスを「イノベーションストリーム」と呼んでいる。これが実現すれば、一度行動を変容した人々は(便利すぎて)(当たり前になるため)元の生活に戻れなくなるという不可逆性を獲得する。具体例を挙げれば、ファストフード、コンビニエンスストア、シャワートイレ、スマートフォン、オンライン会議、動画配信サービスなど、枚挙にいとまがない。

 

先述の通り、内田は、イノベーションを起こすのに必ずしも自分で新しいものを作り出す必要がない、技術革新を実現する必要がないことを強調する。「行動変容としてのイノベーション」を実現するために大切なのは、「変わりゆく変化の中で、何が求められるかを理解し、適切な人に適切な価値を提供することであり、その際、価値を新しく作る必要はなく、既存価値を転用することで人々の行動変容を起こすことは可能」だというのである。例えば「油揚げをさらうトンビ」の例えにより、後発者として、他社が生み出した新しいビジネスや商品を同一市場で磨き上げることで顧客の行動変容を実現したケースや、イノベーションのドライバーを味方にすることで、他社が生み出したビジネスや商品を別の市場に転用して成功したケースなどを内田は紹介する。

 

また、連続したイノベーションを生み出すプロセスとして、同一顧客に対して、ある行動変容を起こした後、その行動変容をベースとする新たな価値の提供により更なる心理変化と行動変容を起こすケースや、ある顧客に対してもたらした行動変容をベースとして、最初のイノベーションとは異なる顧客に対してイノベーションを連続させるケースがあるという。

 

前者のケースを生み出すためには、最初のイノベーションで得た顧客との接点を最大限に活かしながら顧客の状況変化を把握し、イノベーションのトライアングルに起こる変化とそのインパクトを早期に捉えることが重要だと内田はいう。後者のケースを生み出すためには、最初のイノベーションから自社の強みを理解し、異なる顧客を狙った際に顧客の意見を吸い上げすぐに製品やサービスにフィードバックしていく仕組みをつくり上げること、他社が最初のイノベーションを起こした場合は、先行する他社の弱みを自社の強みで埋めること、先行する他社が取りこぼしている顧客をターゲットとすることなどが重要だという。

文献

内田和成 2022「イノベーションの競争戦略: 優れたイノベーターは0→1か? 横取りか?」東洋経済新報社

 

非線形性としてのサービス&ホスピタリティ

サービスやホスピタリティには、モノ的世界観に基づくものと、コト的世界観に基づくものがあると考えられる。モノ的世界観は工業化との繋がりが強い。工業化が世界経済を飛躍させ人々の生活を豊かにしたことは紛れもない事実であり、モノとしての製品を大量生産して消費者に届け、消費者がそれを購入して消費するという工業の発想をサービスに拡張したものが、モノ的世界観によるサービスである。であるから、モノ的世界観によるサービスは、モノを作って配達するかのようにサービスを生産して顧客に届けるという発想が伴う。生産と消費が同時に行われるというサービスの特徴はあるが、消費者がモノとしての製品に求めるように、全てのサービスにおいて、同一で安定した品質を提供しようとするものである。非製造業は全てサービス業であると理解するならば、工業化時代の産物として、このような発想に基づくサービスが世の中に多いことは理解できる。


例えば、製品としてのスマートフォンや自動車が、同じ品番あれば全て同じスペック、同じ機能、同じ品質であることが求められるように、モノ的世界観に基づくサービスは、いつ、どこで、誰から(何を通じて)それを受け取っても、期待通り、設計通りの同じ内容を伴ったサービスであることが重要である。つまり、あらかじめ設計されたサービスを設計通りに生み出して顧客に提供するということである。一方、コト的世界観に基づくサービスやホスピタリティはそれとは根本的に発想が異なる。すなわち、サービスやホスピタリティは「モノ」ではなく「出来事(コト)」である。ある特定の場所・時間、特定の関係性において一回きり生じる、唯一無二の「体験」「出来事」だと捉えるのである。


モノ的世界観に基づくサービスでは「線形性」が基本となるのに対して、コト的世界観に基づくサービスやホスピタリティでは「非線形性」が基本となると考えられる。まず、線形性という特徴は、機械的で工業化時代に適したコンセプトである。世界や組織、製品、製造プロセスなどを整然と理解することを可能とする。例えば、製造能力を2倍にすれば、生産量が2倍になる、労働時間を2倍に増やせば、アウトプットが2倍になるという塩梅である。線形性に基づいたマネジメントは、同じ品質、形体の製品を、欠陥なく正確に大量生産するといったものに適している。Xを1単位増やすと、Yがどれだけ増減するかといった関係が分かりやすいので、製造プロセスや労働プロセスをコントロールすることでアウトプットをコントロールするという発想につながってきた。要するに、マネジメント=コントロールという発想につながっているのが、機械論的な世界観と、それを支える線形性というわけである。


したがって、モノ的世界観に基づくサービスにおいては、線形性の発想を生かすことで、いかにして均質かつ高品質なサービスを安定的に顧客に提供するための仕組みを構築し、サービスの品質をコントロールするかがマネジメント上の大きなポイントとなる。別の言い方をすれば、提供されるべきサービスは、それを扱う従業員の個性や個人差などに左右されてはいけない。誰が扱っても同じ内容のサービスであるべきなのであって、顧客からもそれが求められているのである。そう考えるならば、この種類のサービスは、人間によるサービスから、デジタル化されたメディアや端末、AI、機械、そしてロボットなどを通じたサービスに置き換わっていく可能性もあることが理解できるだろう。これらは人間よりも線形的な発想でコントロールしやすい対象だからである。


一方、コト的な世界観に基づくサービスやホスピタリティの本質は非線形性にあると考えられる。非線形性の場合は、線形性と異なりその振る舞いの予測が難しく、カオス理論のように創発現象も見られる。数学的には決定論的である決定論的カオスであっても、人間には理解し難い姿が次々と生み出される。人工物や工業製品の世界と異なり、自然現象や生命は線形でなく非線形の世界である。直線ではなく渦巻き模様に代表される。気象や台風のように、全く同じものは1つとして現れない。全て異なるが、類似したパターンは見られる。


非線形性がもつ性質は、出来事(コト)であるが故に、1つ1つが唯一無二で全て異なるというサービスやホスピタリティの特徴と対応している。異なっていても、そこにはある種のパターンが見られるので、そのパターンによって、「○○らしいサービス」という特定が可能であるわけである。例えば、スターバックスの店員によるサービスは、顧客によって、店員によって、状況によって異なるだろうが、それらに何となくスターバックスらしさを感じるとするならば、それこそが、非線形性な振る舞いにおいて創発する何らかのパターンがあることを示している。


コト的世界観に基づくサービスやホスピタリティがもつ非線形的な特徴を、どう解釈してサービス&ホスピタリティ・マネジメントに活かしていけばよいのだろうか。まず、人間にとって予測不能ということは、コントロール不能であることを意味するから、マネジメント=コントロールという発想をいったん捨てなければならないだろう。誰に対してもいつでもどこでも全く同じサービスやホスピタリティが提供されるということがあり得ないということは、ものづくりのように均質なサービスを厳密な管理を通じて作ることはできないということであるから、工業製品であれば致命的な問題ではある。しかし、コト的世界観にたてば、モノではなく無形の価値を生み出すサービスやホスピタリティでは、全てのサービスが均質で同じである必要はない。


そもそも無形のものに均質とか同じという概念が成り立つのかという哲学的な問いも立てられよう。おそらく、サービスを提供する側も、サービスを受ける側も、モノ的世界観でそのサービスを理解していれば、そのサービスは名実ともにモノ的世界観のサービスとなる。この場合は、顧客は、均質的で同じサービスが存在すると信じているから、どのようなサービスを受けるのかが事前に予測できるし、かつ予測どおりのサービスを受け取ることで満足度が最大化する。そこに予想外の驚きはないが、モノ的世界観であればそれでよい。iPhoneをお店で購入してみたら、自分が予想していた製品とは全然違っていて驚いたということが生じたら、モノの世界では欠陥とか失敗ということになるのである。


一方、サービスを提供する側も受ける側もコト的世界観でそのサービスを理解していれば、1人ひとりに対するサービスは異なっていて当たり前という発想になる。非線形的なカオスのモデルや数式から新たな現象が創発するように、安定していない、1つ1つが異なる、何かが創発するといった現象は、欠陥ではなく、むしろ、サービス&ホスピタリティにおける「創造性」の源泉だと考えられる。つまり、「伝説のサービス」「真実の瞬間」はそこから生まれるのだと思われるのである。これが、工業製品を模したモノ的世界観に基づくサービスとは異なるところである。製造される工業製品であれば、求められるのは全て同じ内容だから、伝説の1品が突然生まれるということはない。モノ的世界観が機械論的である一方で、コト的世界観に基づいたサービス&ホスピタリティはより人間的であり、自然や生命に近く、その本質は非線形性であると考えられるのである。


この非線形性を対人的な接客場面を例として用いて説明すると、人間同士の相互作用の中では、自分が誰かにやったことが何らかの形で跳ね返ってきて、それがさらに相手に対する振る舞いに影響するといったようなフィードバックループが生じる。さらに複数のアクターがそのプロセスに関わってくると、もはや線形性では説明できない現象となり、非線形性の特徴、例えば、カオスや複雑適応系が持つ特徴を生み出す。これは、自然現象や生命現象においても、さまざまな要素の相互作用によって非線形的な特徴が観察されるのと同様である。


この非線形性で重要なのが、全くのランダムな混沌状態ではなく、かといって線形性が想定するような整然とした秩序が存在するわけでもないという点である。強いて言えば、ランダムな混沌と整然とした秩序の中間のような振る舞いであって、その原因の1つが、各要素がある程度自律性を持って動きつつも、他の要素と相互作用を行なっているという点にある。例えば、顧客から見れば、どのようなサービスを受けるのかは大まかには予測できるが、実際に受けてみて、良い意味で期待を裏切られる(素晴らしい)おもてなしをされるということが起こり得る。サービスを提供する側から見ても、基本的にはお客様に対して提供するサービスの内容は決まっているとしても、実際にお客様と会ってみてから、アドリブで変える部分もある。それはどのようなお客様なのかによるし、その場になってみないと分からない面がある。


以上から、サービスやホスピタリティを機械的ではなく人間的な営みであると捉え、サービスやホスピタリティを提供する従業員とそれを受ける顧客との相互作用がサービスのクオリティを決定づけるのだと考えるのであれば、さらに言えば、サービスの提供者と受け手の両者を含むひとつの「場」としてそこに立ち現れてくる何かをサービスとして捉えるのであれば、非線形性こそがその本質であり、非線形性について深く理解することが、感動を呼ぶサービスや伝説のサービスを生み出すメカニズムを理解することにつながるであろう。

社会システムの全域化がもたらすヒューマニズムの危機

宮台・野田(2022)は、現代の社会が「安全・快適・便利」を追求してきた結果として、「汎システム化=社会システムの全域化」が進行しており、それが、伝統的な「生活世界」を侵食しているが故に、私たちは多くのものを失いつつあると論じる。そして日本をはじめとする世界各国で「社会の底が抜けた状態」が進んでいるという。それはどういうことかというと、現代社会において、「安全・快適・便利」を追求する人々の合理的な判断と行動が集積した帰結として、孤独死や人間関係の希薄化、感情の劣化などに示されるように、私たちの人間性の喪失すなわち「ヒューマニズムの危機」が訪れているということである。

 

宮台・野田の主張が理論的に依拠しているのは、社会学における社会システム理論である。社会システム理論は、ウェーバーの枠組みを出発点としてパーソンズらによって打ち立てられ、その後ハーバーマスの展開を経てルーマンによって高度な理論枠組みに彫琢されたものであり、社会システム理論によって社会変容のメカニズムやプロセスを理解することが可能になるという。宮台・野田は、ハーバーマスルーマンによって提唱された「生活世界」と「システム世界」を対立概念と捉える。

 

宮台・野田によれば、生活世界とは「地元商店街的」なもので、関わる人々は顔見知りであってそこでのコミュニケーションは顕名的・人格的・履歴的であり、共同体意識・仲間意識を基本とする慣習やしきたりを重視する。一方、システム世界は「コンビニ的」なものであって、関わる人々やコミュニケーションは匿名的・没人格的・単発的であり、慣習やしきたりではなくマニュアルに従って役割を演じることが重視される。生活世界では人間関係が全体的・包括的であって善意と内発性に従って行動するのに対し、システム世界では人間関係は部分的・機能的なものであって損得勘定だけで行動する。

 

では、宮台・野田が主張する、社会の汎システム化=社会システムの全域化とはどのようなもので、なぜ起こっているのだろうか。まず、私たちの社会の「安全・快適・便利」が高まってきたのは、市場経済という社会システムが発達し世界に普及したという要因によることが大きいことを理解しておく必要がある。そして、市場という仕組みに支えらえれるシステムが世界に普及することによってもたらされるのは「過剰流動性」と「入れ替え可能性」である。例えば、市場では価格という統一基準が定まればさまざまなものが価格を基準に交換可能となるから、モノや人の流動性が高まるのである。また、価格が唯一の交換基準となるから、取り替え可能性も高まるのである。

 

市場経済を中心とする社会システム化が進行することで「安全・快適・便利」の度合いが高まっていく。そしてさらに社会の「安全・快適・便利」の度合いを高めようとするのは人間の合理的な判断・行動であって、その結果、システム社会の全域化が進展する。このような社会システムの普及・汎化もしくは全域化は、一見するとそれは私たちの暮らしを豊かにしているように思う。しかしそれは同時に、私たちがそのようなシステムへの依存度を高めていることを意味している。たとえ最初は、自律的に社会システムを「利用」しているに過ぎないとしても、次第にそれが、システムなしでは暮らせない状態に発展し、システムに依存するようになる。そして人々は次第にシステムの一部と化し、システムの奴隷になってしまうことを宮台・野田は示唆する。

 

このように、汎システム化の進行によって、社会と人間関係が本質的に変容している。生活世界が色濃く残る社会では地域共同体のかけがえのない一員であったはずの自分が、いつの間にかシステムが生み出す過剰流動性の中で、取り替え可能な部品になってしまったような感覚に襲われると野田はいう。「安定・快適・便利」を求める私たちの合理的な判断と行動の積み重ねが、人間同士の関係性を根本的に変化させ、私たちの精神的安定性を失わせているのである。短期的な便益を享受するために意図的にシステムに依存する自律的な行為が、気がつけばシステムなしには生きられない他律的依存に頽落しているのだ。

 

宮台・野田によれば、テクノロジーの進展は、世界レベルにおける社会システムの全域化に拍車をかけている。人々が、「安全・快適・便利」に対する強い欲求を持っている以上、この流れを止めるのは困難だという。社会システムの全域化によって生活世界の空洞やそれに伴う人間の感情の劣化も避けられない。感情が劣化し、システムの奴隷に成り下がることは、人間でありながら人間らしさや主体性を失い、単に快・不快といった動物的な性質に従って行動するようになる。そしてそれをテクノロジーやAIが巧みに利用することで人間を統治するようになるだろう。これはすなわちテクノロジーが神格化する一方で人間が動物化していくことを意味していると宮台・野田は警鐘を鳴らす。

 

では私たちはどうすれば良いのだろうか。宮台・野田は、構造的な問題の解決は容易ではないことを認めつつも、漸進的な変化による現実的な処方箋を重視する社会学の立場に立つ。そして、私たちがシステム世界やテクノロジーと共存しつつも、共同体自治を基本とする中間集団の充実を軸に、人間同士のつながり、人間らしさ、生活世界を取り戻すための幾つかの処方箋を提案している。

文献

宮台真司・野田智義 2022「経営リーダーのための社会システム論 構造的問題と僕らの未来 (至善館講義シリーズ)」光文社