哲学と宗教

現代は科学至上主義のような風潮があるが、人間にとって科学ではなくとも重要な思想が、哲学と宗教である。高校倫理の教科書(小寺[編]2011)では、「自分が今、ここに生きていることの驚きや不思議さ」から哲学することを勧め、以下のような説明を加えている。

私たちは日常の暮らしの中で、さまざまなものごとに取り囲まれて生活している。そのような毎日の中で、ふと、自分が生きていること自体が不思議に思えたり、自分はなぜ、何のため、今、ここに存在しているのだろうか、という疑問に目覚めたりすることがある。そのような疑問や驚きによって、私たちはふだんの生活の流れから自分を取り戻し、人生を自覚的にみつめ、問うことのできる主体、すなわち哲学する人間となる。・・・哲学することは、日常の自明な現実に、あらためて疑問や驚きをもつことから始まる(p17)。

科学との違いについては、以下のように説明されている。

科学はこの世界の中で、私たちに対象としてあらわれるさまざまなものごとを客観的に考察し、その仕組みや法則性を明らかにする。科学は客観的な観察データによって、みずからの結論を検証し、裏づける実証性をもつ。一方、哲学は私たちがそのようなものごとと出会う場所となるこの世界や人生が、全体としてどのような意味や目的や価値をもつかについて思索する。


私たち自身が世界や人生の中に生きている限り、それらを私たちの前におかれた一つの対象として考察することはできない。世界や人生から離れた固定的な観点から、それらの全体像を見ることはできないのである。私たちは世界や人生のただ中で、生きる体験を通して、その意味や目的を思索し続けていくしかない(p17-18)。

一方、宗教とは何かについては、以下のような説明がある。

私の命はどこから始まるのだろう。私は自分で自分の命を作ったわけではない。それは、およぼ46億年前の地球の誕生にさかのぼり、40億年前に地球に誕生した生命の営みにつながる。私たちの命は、遠い過去に生きた無数の命とつながり、そして地球の豊かな自然の中で育まれて、今、ここにみずからの生を恵まれたのである。


私たちはいわば宇宙の根源から命をあたえられ、宇宙の大きな命のあらわれを、今、ここに生きているといえよう。そのように考えるとき、私たちは日常の小さな自分へのとらわれから解放されて、大きな宇宙の命がみずからの命の根源であることに目覚める。


宗教では、このようにすべてのものに生をあたえる命の根源を神や仏と呼ぶ。神や仏はさまざまに説かれるが、人間をつつみ込み、あるいは人間をこえた彼方から、私たちに命を恵む永遠の命の源といえよう。私たちはこのような命の根源に、祈りを通して応える。人間は祈りを通して、自己の、そしてすべての人びとの命の根源へとまなざしを向け、あたえられた命に感謝と畏敬の念をいだく。信仰とは、このような祈りを通して、自己中心主義の小さな殻を脱ぎ捨て、宇宙に働く大きな永遠の生命に目覚めながら生きることといえるかもしれない(p58)。