事上磨錬としての学

論語に「学びて思わざれば則ちくらし。思いて学ばざれば則ちあやうし」というものがあるが、守屋(2008)は、深い読みや洞察力を意味する「智」や、自分自身を知る洞察力をさす「明」を磨くためには、(1)事上磨錬を忘れないこと、(2)古典や歴史書に学ぶこと、が大切だと指摘する。


安田(2009)によれば、孔子の「学」は決して机上の学問ではなく、日常の生活や仕事にも全身全霊を込めてぶつかっていきながら何かを発見する、事上磨錬としての「学」であった。それは孔子自身が生まれながらに貧しく不遇でいろいろなことをやって(なんでも器用になりながら)学んできたと言われている。


そのような事上磨錬の「学」によってはじめて運命や天命や、世の中の制度や仕組み、政治・経済、生物・物理、さらには医学・生理学といった、あらゆるものに流れている原理や秩序としての「命」を学ぶことができるのだと安田は指摘する。


そして守屋は、事上磨錬と同時に、古典や歴史の本を読んで「興亡の理」を学びとるなど、先人の知恵や経験に学ぶことを積み重ねていけば、智や明に磨きをかけていくことができるのだろうと言う。ただ、冒頭の言葉にもあるように、ただ先哲の知恵を読むのではなく、どのように実践に役に立てていくのかを自分の頭で考えながら読むことによって、自分なりに消化していくことが大切なのだと指摘する