「いい人」をやめる

弘兼(2005)は、「いい人になったって、人生は退屈なだけだ」という。

たとえ大波にさらわれて奈落に突き落とされ、敗北感にうちひしがれたとしても、つぎの瞬間には昂然と立ち上がって歩き出す。自分を小さくまとめて状況に埋もれさせない。切っ先鋭く現実に向き合い、倒されたらそのときのことと割り切る。・・・これだけのことができれば、まず間違いなく明快な人生を送れる。浮き沈みの激しい波乱万丈な人生になるかもしれないが、少なくとも曖昧で退屈な人生だけは送らずにすむ(弘兼2005:5)。

弘兼によれば「いい人」は濃淡の問題である。自分が息苦しくなるほどいい人になってはいけないという。「いい人だけど少しあくがある」「いい人だけど自己主張が強い」というように、人生にとって大切なのは、この「だけど」の後に続く部分である。そこに自分自身が出る。


自分でも分からない部分はある。例えるならば、自分の70%は石で、変わらない部分だが、残りの30%は風だ。自分の中には「風」もあり、どこに吹いていくかわからない風であり、自由な生き方を求める自分である。何かに成り変わるかもしれない自分である。


弘兼によれば、人には無茶でも断固としてやらなければならないことがある。いま持っているすべてのものを犠牲にしてもである。体験は何ごとにもかえがたいものだから、自分のわからない部分を認め、好奇心に歯止めをかけず、そういうものが見つかったら、決心するべきである。


また、どんな境遇にも居直ることができるのも重要だという。窓際にいようがリストラに遭おうが、どこにいても何をやってもオレはオレだと居直る。自分で歩いていく野性を持ち、そういう居直りがあれば活路は見出せるという。結局、辛酸を舐め、そこから這い上がるというように、大きな失敗を自分で乗り越えた経験があるならば、失敗を恐れないし、立ち直りが早く、自分の人生に揺ぎない自信が生まれてくるのである。