アブダクション、演繹、帰納を使い分ける探究の論理学

米盛(2024)は、現代の論理学は演繹的推論に限定した論理の数学化によって大きな発展を遂げ、それは21世紀の知的革命の1つであったといえるが、もっぱら推論の形式的構造とその論証力に特化する論理学はますます現実の人間の思考の論理から離れてしまったと指摘する。そこで米盛は、人間が科学的思考を通して創造や発見を行うことで新しい諸概念を生み出し知識の拡張をもたらす動的な論理学として、アメリカの論理学者チャールズ・パースが提唱するアブダクションを主題とする「探究の論理学」を紹介する。米盛によれば、パースの探究の論理学は、現実の科学的探究の過程の中に演繹、帰納アブダクションの3種類の推論を位置付けて、生きた探究の過程においてそれらの推論がどのような関係にあって、どんな機能・役割を果たすか、果たすべきかを示すものである。以下、米盛による解説に基づいてパースの探究の論理学を解説する。

 

パースの探究の論理学の詳細に入る前に、まず、論理学が扱う推論について説明しておこう。米盛によれば、推論は、前提と結論から成り立っており、いくつかの前提(既知のもの)から、それらの前提を根拠にしてある結論(未知のもの)を導き出す論理的に統制された思考過程を指す。そして、パースの探究の論理学では、推論を分析的推論と拡張的推論に分ける。分析的推論には演繹が属し、拡張的推論には帰納アブダクションが含まれる。分析的推論もしくは演繹的推論は、前提と結論の関係が、形式的な論理関係のみによって成り立っている推論を指す。よって、分析的推論においては前提の内容の中にすでに結論の内容が含意されていて、前提から結論を導く推論の過程は前提の内容を分析し、その中に暗々裏に含まれている情報を結論において明確に述べることである。

 

つまり、分析的推論は経験的実在の世界の「事実の真理」の決定にはかかわらず、推論の内部における前提と結論の論理的な含意関係の分析にのみ関わる。よって、経験的事実による反証にさらされることがなく、経験から独立に成り立つ推論である。分析的推論は前提の内容を解明するために用いられ、前提が真ならば結論も真でなくてはならないという必然の関係が成り立つ。そのため、分析的推論を扱う論証の論理学は、推論の形式を実際の探究の過程または文脈から切り離して、もっぱら推論の形式的構造をもとにして推論の妥当性について研究する。つまり、前提から結論を導き出す際のその導出の形式または規則が論理的に妥当か妥当でないかを考察するが、それは推論の形式のみに依拠しており、推論の内容(前提や結論の真偽)とは無関係である。このように、分析的推論は前提の中にすでに含まれている以上のことを結論として導き出すことはできないので拡張的機能はない。

 

それに対し、帰納アブダクションを含む拡張的推論は、経験に基づく推論であり、科学的発展などを通して経験的事実の世界に関する知識や情報を拡張するために用いられる推論である。拡張的推論は前提の内容以上のことを主張することで、前提の内容を超えて、前提に含まれない新しい知識や情報を与える。よって、拡張的推論は蓋然的な推論で、前提が真であっても結論は偽でありうる。つまり、推論の拡張的機能と論証力はトレードオフの関係にあり、拡張的機能において優れた推論ほど、可謬性の高い、論証力の弱い推論である。そして、同じ拡張的推論でも、帰納アブダクションでは推論の特徴や探究プロセスでの役割が大きく異なる。帰納は、観察可能な事象における既知の事実から未知の事例への一般化を通して、ある部分に関する既知の情報からその部分が属するクラス全体について新たな情報を導き出す推論である。

 

帰納は、われわれが事例の中に観察したものと類似の現象の存在を推論する。つまり、あることが真でようないくつかの事例から一般化を行い、そしてそれらの事例が属しているクラス全体についても同じことが真であると推論する場合をいう。過去の経験に基づいて未知の未来の一般的事象に関する知識を与えることでもあり、部分から全体へ、特殊から普遍へ知識を拡張する推論である。一方、アブダクションは、われわれが直接観察した事実から、それらの事実とは違う種類の、しかも直接的な観察不可能な仮説的な思惟による発見をもたらす推論である。アブダクションのプロセスは(1)驚くべき事実Cが観察される、(2)しかしもしHが真であれば、Cは当然の帰結だろう。(3)よって、Hは真であると考えるべき理由がある、というものである。つまり、アブダクションは、経験的実在の世界に関する知識を発見し拡張する推論の方法である。アブダクションは、最も優れた拡張的機能を有する推論である。

 

要するに、帰納は観察データにもとづいて一般化を行う推論であり、アブダクションは観察データを説明するための仮説を形成する推論である。帰納の本質はある一群の事実から同種の他の一群の事実を推論する。一方、アブダクションで生み出す仮説はある1つの種類の事実から別の種類の事実を推論する。つまり、アブダクションは、われわれが直接観察したものとは違う種類の何ものかを推論する。そして、われわれにとってしばしば直接的には観察不可能な何ものかを推論する。帰納アブダクションの推論の形式は形式論理の規則に反しており、形式論理的に妥当な推論の形式ではない。よって、先述の通り、帰納アブダクションは、推論の形式的妥当性や論理的必然性を犠牲にして、その代わり、経験的事実の世界に関する知識を拡張するために用いられる拡張的推論である。

 

拡張的推論は前提から結論に至る推論の過程にある種の飛躍があり、拡張機能はこの飛躍によって達成される。帰納的飛躍は、既知の部分からその部分が属する未知のクラス全体への飛躍である。同種の観察可能な事象のクラス内における一般化の飛躍である。一方、アブダクションによる仮説的飛躍は、われわれの観察の限界をはるかに超えて、われわれが直接観察したものとはまったく違う種類の、しかも直接的には観察不可能な超越的対照の概念を確立する。また、仮説的推論は非常にしばしば直接観察できない。よって、アブダクション帰納よりもいっそう可謬性の高い飛躍であり、帰納よりも弱い種類の推論である。さらに、アブダクションは論理的諸規則によって拘束されることはほとんどない。つまり論理的諸規則によって縛られることがないから、創造的な想像力が働く余地がある。アブダクションによって、科学的探究者は自由に想像力を働かせて仮説を発案することができるのである。

 

さて、パースの提唱する探究の論理学は、科学的研究において新しい諸概念を発見し知識の拡張をもたらす推論の「拡張的」機能を重視し、その観点から、拡張的か否か、どんな拡張的機能を持っているかを分析し評定する。

 

パースが開設する科学的探究の第一段階はアブダクションで、ある驚くべき現象の観察から出発し、その現象がなぜ起こったのかについて何らかの可能な説明を与えてくれる仮説を考え出す。探究の第二段階は演繹で、アブダクションによって提案された仮説の検討から始め、もしその仮説が真であるとしたら、その仮説から実験観察可能な諸予測を演繹的に導出する。つまり、分析的な演繹的推論によって、アブダクションによって提案された仮説の内容を分析し、その仮説に含意されている諸予測を導出し、実験的テストにかけられるよう明確に示す。探究の最後の段階が帰納で、仮説から導かれる帰結がどれだけ経験と一致するかを確かめる。そして仮説が経験的に正しいか、それとも本質的でない何らかの修正が必要か、あるいはまったく拒否すべきかを判断する。ここではわれわれの仮説がどれだけ真理に近いかを見出す。

 

アブダクションは探究の最初の段階で仮説を形成する推論であり、帰納は探究の最後の段階で仮説がどれだけ経験的事実と一致するかを確かめ、仮説を確証ないしは反証する操作である。アブダクションが扱う事実は「説明を要する事実」で、それをあらゆる側面において考察してそれを説明しうる仮説や理論を提案する。アブダクションが行う観察は着想のための観察である。帰納は事実を追求する。つまりアブダクションによって提案された仮説や理論を実験的にテストするのに必要な実証的諸事実を追求し、それをできるだけ多く集める。帰納が行う観察は、仮説や理論の確証ないし反証を行うための実験的実証的観察である。以上をまとめると、探究の論理学においては、わたしたち人間が経験との相互作用を通して知識を拡張していくことを可能にする拡張的な推論を重視し、その拡張性推論を構成する帰納アブダクションは、探究の最初の段階と最後の段階で役割分担をしながら用いられる。分析的推論としての演繹はこの橋渡しをしており、このプロセスではアブダクションが発見した仮説を帰納的に検証可能な形に変換する役割を担っており、知識の拡張性はない。

文献

米盛裕二 2024「新装版 アブダクション: 仮説と発見の論理」勁草書房

 

意識のハードプロブレム解決の糸口

シース(2024)は、複雑性の理論を用いて、宇宙全体のレベルから素粒子のレベルまでこの世界のあらゆるレベルにおける存在の本質は、関係性が織りなす自己組織性や創発のプロセスにあることを示唆している。例えば、あるレベルにおいて何らかのモノと思われるものが、その下位レベルに視点を移せば、要素間の関係性からくる自己組織化現象であったり創発のプロセスであったりする。宇宙から素粒子レベルまでがフラクタルの様相を呈しており、上記のような特徴はマクロからミクロまで延々と繰り返される。すなわちモノと思われるものは実はコトであったりする。この世界すなわち宇宙がモノでできていると思い込んでしまうと、ビッグバンの理論のように宇宙の始まりの段階ではそれがパチンコ玉のような大きさであったと言われても想像することすらできないが、宇宙の存在の本質がコト(プロセス)であるとすると、いや正確にいえばモノとコトの二重性を有していると考えるならば、ビッグバンの理論も納得できる。

 

このように、人間の主観を離れた客観性を前提とする世界、宇宙の存在の本質がおぼろげながらわかってくると、どうしても手をつけないと気持ちが悪いトピックが浮かび上がってくる。それは、シースも「ためらいながら」もそこに足を踏み込んだ主観的経験すなわち「こころ」とか「意識経験」の領域である。この世界、この宇宙はあくまで「わたし」が主観的経験として見ているものであって、いくら客観的であると言われても、その客観的なものを直に知るものは誰もいない。主観的経験をもったわたしたちが「想定している」ある意味架空の世界であったり虚構であったりする。では、この主観的経験とはいったい何なんだろうか。私たちが世界の一部である以上、この主観的経験とか精神も世界の一部であるはずだ。そこで多くの人がなんとなく常識だと思っている「素朴な唯物論」だと、私たちが有している主観的経験は、人間の脳が活動することで生み出されるものだと考えられている。しかし、主観的経験とか「こころ」を、意識という言葉で統一的に表すならば、「脳が意識を生み出す」という考え方は科学的な根拠がない。

 

科学的な知見から推論できるのは、脳の活動と意識の活動は「相関している」ということだけで、脳が意識の原因であるという因果関係は確かめられない。例えば、私たちがこころの中で想像したりたまたま思いついたことが脳や身体に影響を与えることがある。これは、意識が脳活動の原因になる可能性を示しているから、脳が意識を生み出すという命題の反証となりうる。これは、デイビッド・チャーマーズによって「意識のハードプロブレム」と名付けられた問題だとシースは解説する。現代科学をもってしても解決不能なこの主観的経験とか意識経験の問題に対して、シースは観念論という哲学の力を借りつつ、ここでも複雑性の理論をもちいて考察を進める。シースは、意識という主観的経験についても、複雑性の特徴である自己組織化や創発プロセスで説明ができると考えているようである。では、私たちがもっている「主観的経験」は、私たちの身体の内部とか脳の中に閉じ込められたものでしかないのだろうか。どうやらシースはこれを否定し、先に議論したのと同じように、意識というものも、ミクロなレベルから宇宙全体のレベルにまで広がっていることを示唆する。

 

上記のように意識の本質を捉えてしまうと少し頭が混乱すると思われるため、順を追って説明しよう。まず、私たち人間は、有史以来の歴史の中で、主観とか主体とは独立した客観的な世界、すなわち人間を超え、神の目からみた世界の存在を前提として、数学的概念を中心とする客観的な方法によってそのような世界、おもに自然を記述しようとしてきた。しかし、皮肉なことに、現代科学が発展し、相対性理論量子力学といった高度な理論が生み出された結果、物質的存在の根源において、主体と客体が分離不可能であることが明らかになったのである。数学的にしか記述ができない宇宙や世界の本質では、客観的な物質の動きや位置は、それを認識する主観の影響を受けてしまい、主観とは独立して把握することができない。つまり、素粒子レベルのミクロな世界から宇宙全体といったマクロな世界まで、存在の本質においては、主体と客体の分離不可能だというのである。ということは、宇宙全体も、主体と客体が分離不可能な関係においてのみ存在しているといえる。

 

なんともオカルトっぽい奇妙な見解になっているが、宇宙全体において不可分な意識を宇宙意識と呼ぶならば、宇宙意識なくして宇宙は存在し得ない。シースは、造語としてこれを「大文字の意識C」と呼ぶ。思い出してほしいのは、この世界とか宇宙の本質は「モノ」ではないということである。物質も意識も、すべてがプロセスであり、コトだと考えてみるとどうなるだろう。わたしという主観的経験が、わたしの身体の内部に閉じ込められているというのは、モノではなくプロセスとしてとらえると単なる幻想だといえそうである。プロセスであれば、内も外もない。物質レベルでも、すべてが流れているという世界観では、人体の内と外といった境界というものはあってないようなものであった。同様に、主観的経験というプロセスを考えても、すべてがプロセスであるなかで、何らかの内か外とか、どこかに境界線があるとかいう考えは問題とならないのではないか。では、実際にわたしたち一人ひとりが経験している意識を「小文字の意識c」とするのあらば、意識Cと意識c(こちらもシースによる造語)の関係はどうなっているのだろうか。

 

シースは、意識Cと意識cの関係を波とその下に広がる海の例えを用いて説明する。サーファーが波に乗っているのを見れば、波は独立した構造体のように見える。サーファーを運ぶ大波はたしかに「実在する」。しかし、波はひとつひとつ独立した存在ではなく、その下に広がる海に逆巻くエネルギーから切り離された存在でもない。波は海の一部であり、海から生み出され、独立しているように見えてもすぐに海に戻っていく。これと同じように、個々の精神や主観的経験は、個性的で現実的で自分自身のもののように見えるが、観念論的に考えると、その自立の感覚は幻想であり、単にある視点から生じるものにすぎず、具現化された現実ではないというのである。プラトンイデア論にまで遡る観念論では、日常の物質的な現実の領域は、壁に投影されたイメージなようなものにすぎず、その元となっているのは、真善美を含む永遠不変で完全で絶対的実体としてのイデアであるとシースは説明する。現代物理学では存在の本質は数式では矛盾なく表せるものの、それを具体的な現象として解釈するのが困難であるが、数式で表されているものが観念論でいうところのイデアを象徴している。

 

観念論におけるイデアと日常の物質的現実の関係は、先ほどの、海と波の関係に似ている。プラトン以来の多くの観念論では、世界は意識に生起するプロセスにすぎず、それゆえ通常の人間精神の認識でとらえきれないことは明らかだという。究極的かつ絶対的なイデアの領域は、わたしたち一人ひとりが認知できる限界を超えた意識(意識C)によってはじめて捉えられる。意識Cは、この物質界に先立って存在する意識の源泉である。このような観念論の立場からいえば。個々の身体、脳、精神をすべて含む全体としての宇宙は、その根底をなす大文字の意識Cの深層から生起する現象にほかならないとシースは主張する。空間、時間、物質、エネルギーなどから生じるあらゆる構造体は、実体的存在をともなわない意識C内での単なる経験である。宇宙には、意識Cの主観的な経験以外のものは何も存在しないから、意識のハードプロブレムはもはや問題でなくなる。では、意識が脳から生み出されるものでないとすれば、意識と脳の関係はどうなっているのだろうか。シースは、脳は精神や意識の「生成器」ではなく、意識Cから意識cに変換する「変換器」だと説く。

 

たしかにシースの意識経験に関する論考は科学的でるとはいえない。しかし、シースは「経験科学と哲学的厳密性さえあれば十分なのか」という疑問を投げかける。まだ人間は発展途上にあるのだから、答えを急ぐ必要はないのかもしれない。ただ、すでに量子力学では、純粋に客観的は方法で現実を定義する経験科学の能力の限界を示しているとシースは指摘している。先述のとおり、神の目から見た客観的な世界の存在を信じてそれを追求する方法を極めた結果が、客観と主観が不可分な存在の本質という結論に行き着いた。主観の側が科学の範囲外であるならば、科学だけで真実を追求しようとする姿勢は片手落ちで、それゆえ、いまのところは観念論などの哲学による「形而上学的な思索」の力を借りねばならないとシースはいう。シースは、複雑性と自己組織化を宇宙の構造に連想させる中で、複雑な宇宙の構造や過程とユダヤ教ヒンドゥー教、仏教などの神秘主義的思想伝統からの洞察が正確かつ明確に対応していることを知って目を瞠ったという。

 

このような経験や見解に行き着いたものはシースだけではないだろう。例えば、「タオ自然学」を著したフランシス・カプラは、現代物理学と東洋思想を結びつけようとしているし、ユングは、意識Cと類似した「集合的無意識」という概念を提唱している。さまざまな思想家が同じ方向をむいているように思われるが、極めつけとしてシースは、客体と主体といった二元論的な発想ではなく、意識Cを基本とする存在の基盤としての一元論的である「根源的認知」という概念にたどり着いたという。これは、科学、哲学、形而上学という3つの利用可能な領域のすべてから得られた知識を綜合する包括的なモデルで、認知こそ、あらゆる存在の基盤となり根源であり本質であるというのが基本命題である。これは例えば、世界といってもそれは私の意識経験が作り出している幻想にすぎず、私が死んだ瞬間に世界も終わるといった話とは関連していても異なっている。この議論はあくまで小文字の意識cについての発想で、意識cは脳によって意識Cが変換されたものにすぎないから、わたしという身体と脳が死ねば意識cとそれが映し出す世界も消失する。私の身体も脳も意識cも、根源的認知が映し出したもので大文字の意識Cの一部である。こうなるともはや意識のハードプロブレムも解消されるとシースはいうのである。

文献

ニール・シース 2024「「複雑系」が世界の見方を変える──関係、意識、存在の科学理論」 亜紀書房

存在の本質を示す二重性あるいは相補性

東洋思想では、本質的に分けることができない全体(=宇宙もしくは世界)を、対立する2つの側面を用いて理解しようとする。その最も抽象度の高いレベルを陰と陽とするならば、それぞれについても対立する2つの側面で理解していくことで枝分かれ的に解像度が増していく。つまり「分ける」ことは人間が宇宙や世界を理解するための認識方法にすぎず、2つの対立する側面を用いて分けて考えるということは、二進法を用いて世界を理解することに他ならない。それが、八卦、六十四卦という形で解像度を高めながら物事を理解していくということである。そして、宇宙もしくは世界は常に変化し生成発展しているわけだが、不可分な全体としての宇宙や世界が変化しているといっても人間としてはそれをまるごとは認識できないので、もっとも抽象度の高いレベルでは、陰と陽のダイナミックな循環という形で理解しようとする。さらに二進法的に解像度を高めていけばもっと複雑な動きや変化も認識することができるというわけである。

 

さて、このように存在の本質を2つの対立する側面を用いて理解するという東洋思想的な考え方と通底しているのが、現代科学が明らかにしてきた様々な宇宙や世界の特徴である。ここでは、シース(2024)の論考を用いてそれを考察してみよう。シースは、複雑性の理論を援用しながら、二重性あるいは相補性という特徴を用いて生命、物理現象、精神世界などの幅広いトピックスについてそれらの存在や実在を説明している。もっとも有名なのが、量子力学における、粒子と波動の二重性である。これは、粒子と波動という相対立する2つの異なる特徴、あるいは矛盾しており同時に存在することが論理的に不可能な2つの要素の両方を併せもっていることが量子の本質だという物理学上の発見である。物理学者ボーアは、この性質を「あらゆるスケールにおける存在の基本特性」と見なしたという。物質的世界の根源的な要素の本質が粒子と波の両方の性質を兼ねそろえているということであるから、この宇宙や世界の物理的な存在の本質は、粒子といったモノ的なものと波といったコト的なものの両面を併せ持っていることだということになる。

 

シースの議論をもう少し丁寧に追っていくと、複雑系において、全体は要素の複雑な相互作用として理解することができ、生命の本質もそのあたりにある。つまり、平衡状態と非平衡状態のあいだに自己組織化を生む状態があり、自己組織化そのものは生命と大いに関係があるというわけである。そして自然界で人間などの生物を考えるならば、生物という個体は、細胞という単位間の複雑な相互作用による自己組織化プロセスが反映されていると考えられる。細胞はすぐ隣とか近くの細胞としか局所的に相互作用できなくても、それが全体として統一感を持った自律プロセスとして生体維持につながっている。しかし、生物を構成する1つ1つの細胞も生命を持ち、常に誕生と死滅を繰り返している。また、外からやってきて生体と共生する細菌などの微生物も1つ1つが生命であるが、生体維持に不可欠である。となると、生命とは何かを理解しようとする際、1人の人間は、それ自体が1つの生命体なのか、あるいは、細胞や微生物といった無数の生命体の相互作用からなる全体、すなわち常に出生死滅を繰り返す何億、何兆という数の生命の相互作用による連合体ということだろうか。二重性や相補性の考え方を用いれば、両方だといえる。

 

人間を意識をもち自律的に統合された活動をする主体と考えれば1つの生命体といえるが、ミクロなレベルで人体やその構成要素である細胞はオープンシステムであり休むことなく外界と物質のやり取りをしていると考えられば、まさに無数の生命体が集まったものもしくは出たり入ったりするプロセスとも言えなくもない。さらに、オープンシステムの考え方を使えば、人体は、それぞれが境界で分けられた細胞、さらには細胞によって構成される組織や臓器の集まりだと捉えるべきか、人体全体を様々な物質が流動していると捉えるべきかという対立的な見方が出てくる。前者は西洋医学と、後者は東洋医学と親和性が高い見方だが、これも、二重性、相補性の考え方でいけば、人体は両方の側面を持っていると理解することが可能である。人体を不連続な細胞の集まりとして捉え、個々の細胞や臓器に焦点を当てて理解するのは、モノとしての人間を見ることになるし、半透明の仕切りはあれど基本的には連続する流体として人体を捉えるならば、どちらかというとそれは流れるコトとして人間を理解することになるが、このモノとコトも、存在の本質を示す二重性、相補性の関係にある。

 

シースによれば、生物の細胞のレベルにまで解像度を高めても、その本質を理解するためには二重性や相補性がついてまわる。例えば、細胞の活動メカニズムをみると、そこには、分子の自己組織化プロセスが重要な役割を果たしていることがわかる。身体感覚の根拠をそれを構成する物質に求めるという立場をとるならば、身体の境界はその物質存在の境界ともいえるが、実のところ、体の中にある分子も、体の外にある分子も性質に違いがない。出たり入ったりしているというプロセスは存在するが、出入りする境界は何かといわれればこれも曖昧であるので、身体と外界とは連続的につながっているともいえる。つまり、身体は外界と切り離された物理的存在であるという視点と、身体は外界と連続しているという視点は二重性、相補性の関係にある。そしてさらに解像度を高め、原子のレベルにいっても、それには自己組織化する複雑性の基準をすべて満たしているとシースはいう。

 

有機物も無機的な原子から構成されているから、有機物と無機物も原子レベルで考える存在の二重性、相補性といってもよい。お互いに排他的な存在ではなく、どちらも生きている地球の全体を構成する相補的な部分なのである。生物学者ラヴロックによるガイア仮説やその最初のモデルとして設計されたデイジーワールドでは、論理的かつ科学的に地球自体が一個の生物だと考えられると提唱され、地球の有機的(生物的)様相と無機的(無生物的)様相が自己制御的で適応的な仕方で綿密に結びついている様子をシミュレーションで提示し、有機的要素と無機的要素が連動して自己制御的な生命体として動作しうることを示しているという。すべての有機的構造体も生と死の循環プロセスを経て原子レベルの無機的領域に還っていく。こう考えると、身体の細胞はつねに入れ替わり、分子レベルでも原子レベルでも常に入れ替わり、再生と置換の果てしない反復のなかで地に還っていく。人体そのものも地に還っていく。そうなると、人間は地球そのもので、原子たちが自己組織化した結果現れたほんの束の間の存在にすぎないのではないかとシースは指摘するのである。

 

素粒子の世界にまで解像度を高めても同じことである。先述の波と粒の二重性、相補性に加え、量子もつれや非局所性という量子の性質は科学的に実証され、もはやローカルとグローバルの区別がなく、両者が共存するという相補性が現れるという。量子のスケールでは、宇宙の果てにまで広がっているわけで、先程の見解でいえば、1人の人間も宇宙そのものという相補性が見えてくる。つまり、宇宙のレベルから素粒子のレベルまであらゆるレベルにおいて二重性、相補性が存在の基本であり、あるレベルにおいてモノのように見えるものも、違うレベルにおいてはなんらかの創発現象にすぎない。どの部分の中にも全体を含むフラクタル構造の中で、宇宙自体が巨大な自己組織化プロセスであり、あらゆるものへの創発特性であるといえるとシースは論じる。これは、異なるレベルも1つの全体として織り込まれているという点でヒエラルキー(階層)ではなく、ホラルキーだという。宇宙が単一の自己組織化する巨大なホラルキーならば、部分にとって真であることは全体にとっても真であり、われわれの行動や決定や思考はすべて宇宙全体の統合された欠くべからず部分でもあるというのである。

文献

ニール・シース 2024「「複雑系」が世界の見方を変える──関係、意識、存在の科学理論」 亜紀書房

社会をよくする投資とは何か

投資はお金を増やすことが目的だと考えているならば、社会をよくする投資と聞くと、きっと儲からないのだろうと思うかもしれない。しかし、鎌田(2024)は、社会をよくすることとお金を増やすことは両立すると主張する。会社の存在意義が社会をよくすることだとするならば、投資の目的は社会をよくすることだと言える。本来、投資を含めた金融とは、社会や経済を豊かにするための水脈のような存在だと鎌田はいう。鎌田が定義する「社会をよくする投資」とは、社会そのものに新たな価値が生まれるお金の流れである。経済成長を主目的とした社会ではなく、人の困りごとや経済成長を追い求めることで生じた社会の歪みを解決することで新たな経済領域を生む。社会課題を解決する結果として、社会全体の経済価値が高まるというわけである。

 

鎌田が主張するように、投資には、自分のお金を増やしながら社会をよくする力がある。しかし、人々の投資によって実際に社会を良くするためには、一人ひとりが投資を単なるお金を増やすための手段としかみていないような振る舞いをする金融市場のささやきに動じない自分なりの「投資観」、周囲に流されない自分らしさをもった長期投資を行う必要がある。せっかく投資をするなら、社会も、未来も、自分自身も豊かにする投資に出会ってほしいと鎌田はいう。そんな鎌田が警告を鳴らすのは、誤作動を起こしやすい金融市場に翻弄されてしまうことの危険性である。これは、株価を高めることが共通目的化し、投資の効率性だけが追求され、短期売買が誘引され、さらにレバレッジが濫用されるといったように、お金を増やすことだけを目的とした投資が存在するために起こってしまう誤作動である。

 

歴史を見れば、人々が物質的に豊かになることを目指した大量生産、大量消費による経済の拡大が翳りを見せ、また東西冷戦の終焉で資本主義のグローバル化が進み、余ったお金が投資マネーとして金融市場に流れこみ、金融市場の中で少しでも高い利回りを求めて動き回るようになった。こうして実体経済の中で循環するお金よりも、金融市場の中だけで増殖しようとするお金が増えると、経済の潤滑油であるはずのお金が、逆に、経済や社会を不安定化させる要因となると鎌田はいう。例えるならば、経済という海の中で金融市場という巨大なクジラが海の大きさ以上に大きくなろうとしているもので、金融市場という巨大なクジラが少しでも暴れると経済という海は荒れ、海の中の生態系(いわば社会)も崩れてしまうという。また、短期間で売買可能な株式市場では、株価が人の心の動きに左右され、欲望と恐怖が渦巻く中で株式市場が実体経済と乖離してしまうという。

 

数字しか見ない投資、お金を増やすだけの投資に陥ることなく、社会をよくする投資を実践するためには、投資が社会をよくする仕組みをよく理解し、長期的な視点から投資をすることが大切だと鎌田は説く。そもそも投資とは、いまお金を使わない人から、いまお金を必要としている人(会社など)にお金を託すことであり、そのお金は、未来に向けた何かのために使われ、リターンは、投資をした会社の経営者や社員の努力によって生まれるという。投資のリターンは会社が生み出す利益から得られるわけだから、社会をよくする事業を営んでいる企業に投資することが肝要である。であるから、株式投資をする際には、価格(株価)ではなく、「価値」に対して投資すべきである。リターンは価値から生まれ、株価は価値に収斂していくことを肝に銘じるべきだと鎌田はいう。

 

蒲田によれば、投資家とは、事業を行うためにお金を必要とする人や会社に出資をして、その事業の成功に貢献しようとする人々であって、自分のお金を増やすことだけを考えている人とは異なる。社会をよくする投資家は、社会をよくする会社を増やし、その成長を後押しすることでよい未来を作ることに貢献する。投資による経済リターンを求めながらも、社会をよくすることに投資の軸を持った投資観が重要である。現在、こうした投資軸、投資観による新たなお金の流れを作ろうとする動きは、ESG投資、ソーシャル・インパクト投資、独自の視点で社会をよくする会社を選定した個別株投資・投資信託といったジャンルに分類される。それぞれ、長所もあれば課題もある。並行して、会社自身も自社の存在目的を再定義し、自社の利益だけでなく環境や社会に対してプラスの影響を生み出そうと真剣に取り組み始めているという。

 

この両者がうまく噛み合うと、持続可能な社会、それを支える新たな資本主義の姿が見えてくると鎌田はいう。こうした中、社会をよくする投資で成功するために、鎌田は以下のようなアドバイスを送る。まず、投資とは大きな資金を使って短期に利益を稼ぐ手段ではなく、普通の生活を送る人でも少額から早く始められ、時間をかけて価値を増幅させるものであること。株価ではなく価値に投資すること。株価は短期的には期待と不安で上下に変動するものの、長期的に見れば価値に収斂していくからである。そして、複利と分散の経済法則を活用し、感情に流されず決めた投資方針に沿ってシンプルかつ淡々と行動すること、何よりも長期の視点を持ち、将来性のある会社の株価が下がった場合には投資のチャンスだと捉え、簡単に売らず持ち続けることである。

 

要するに、自分なりの投資観(軸)を大切にすることだと鎌田はいうのである。変化に動じない投資感を持つことは、自分らしい投資観を持つことであり、それを磨くものは、突き詰めれば謙虚さと感謝の精神なのではないかという。まとめると、社会をよくする投資とは、社会をよくする事業、活動にお金が使われ、それによって社会がよくなり、社会がよくなることで経済価値が増加することからリターンを得ることで、社会をよくすることとお金が増えることが両立する。一方、お金を増やすことのみを目的とする投資は、金融市場や社会を不安定にし、環境を破壊したり社会的不平等を増加させたりして、社会を悪くする。であるから、人々がみな、社会を良くする投資をすれば、社会が加速度的によくなっていくと考えられるのである。

文献

鎌田恭幸 2024「社会をよくする投資入門:経済的リターンと社会的インパクトの両立」ニューズピックス

論理的思考の4つの型

論理的に考えることの重要性は幅広い分野で指摘されており、論理的思考は世界共通で不変のように語られている。しかし、渡邉(2024)は、論理的に思考する方法はひとつではないと主張する。渡邉は、論理には文化パターンがあり、思考の基本パターンと文化的側面の両面から考えることの重要性を指摘するが、その前に、西洋の思考パターンとして、「論理学」「レトリック」「科学」「哲学」の4つの思考法について解説している。この4つの専門領域は、それぞれ異なる目的と、その目的を達成するための推論の型を持つ。つまり、何を目的に、何を対象として議論するかによって、論理的であるための必要条件と評価の観点、証拠の種類、意味づけも変わってくるというのである。このことから、論理的であることは一つではなく、それぞれの分野によって変わり、真実の基準も変わってくることがわかるという。4つの専門分野の目的と思考法の特徴を比較することで、それぞれの目的に合った論理的思考法があることがわかるというわけである。

 

まず「論理学」である。渡邉によれば、論理学の根幹をなすのは「矛盾を排除して無矛盾を維持すること」である。論理学は、文と文の関係を「内容」ではなく、その「形式」に注目することによって結論の真偽が判断できる仕組みを考え出した。その中で重要なのが、すでに知られていることからまだ知られていないことがらを推理する「推論」であり、論理学では、既知の真とされている(大前提)から未知のことを推理する(結論を導き出す)「演繹的推論」を扱うという。論理学の真骨頂は、既知のことがらを真と認めれば、そこから正しい形式の規則に従って未知のことがらが導かれるならば、その未知のことがらも「論理的な必然」として絶対に正しいと認めなければならないことだと渡邉は説明する。論理学を支えるこの原理があるからこそ、結論が論理的に正しいか間違っているかの判断が明確につくわけである。

 

次に「レトリック」であるが、レトリックとは、人を説得するための証拠立ての方法と議論の型を考え、説得のための言語技術を体系化したものである。これは、人々の常識を前提とした、時には正しくないが、多くの場合に正しい「蓋然的推論」と、類似した事例で証拠づける「例証」による「実践的論理学」だと言える。つまり、レトリックは、常識を基盤として、一般大衆に向けて説得的な弁論を行うための技術なのだと渡邉はいう。説得するとは、受け手の心からの同意を引き出し、言論によって受け手の考えや行動を変えることであるから、理性(ロゴス)による論理的な説得のみならず、話し手の「倫理(エトス)」と受け手の「感情(パトス)」をも視野に入れているという。弁論者が信用できる人物だと受け手(聴衆)に認識されると弁論の説得力が増すため、弁論者が受け手に信頼に値するとイメージさせる術として倫理(エトス)が考慮され、受け手の感情(パトス)に訴える説得は、現実には論理的な説得よりも効果的ある場合が多いことも考慮する。

 

レトリックでは「日常の論理」を重視する。日常の論理を支えるのは、論理学の演繹的推論に対応させた「蓋然的推論」と、帰納に対応させた「例証」である。蓋然的推論の前提となるのは、人々の常識や通念であり、蓋然知とは常識のことを指し、人々の日常生活の行動の規範であり、判断の拠り所でもある。であるから、蓋然的とは、疑わしいもの(偽)と必然的なもの(真)の中間にあって、真実らしさは「道理がある、もっともだ」の意味であるから、論理学的、科学的な確実さではなく、人間的な確実さ、社会的な確実さを志向するのだと渡邉はいう。例証は、帰納のように個々の事実から一般的な原則を導き結論とするのではなく、具体的な事例からそれに類似した事例に移行して主張を根拠づける役割を担う。レトリックが扱うのは「事の優劣、適否、道理の有無」に関する価値判断であって、何を優先すべきか、どこに道理があるのか、眼の前の状況に対して何をすることが適切なのかの判断を主張して人々を説得させることが目的なのである。

 

渡邉がその次に紹介するのが「科学」である。科学は、驚くべき事実などに対する「なぜ」に答える目的を持って実践される。ここでは演繹と帰納とともに第3の推論とされる「アブアクション(遡及的推論)」が重要である。これは、科学的探究の最初の段階である「仮説」を作るときに用いられ、「Bである」「もしAならばBである」「よって、Aは確からしい」という形式を持っている。あらゆる探究は、常識的な期待に背くような驚くべき事実の観察から起こるが、その事実をあらゆる側面から考察し、その事実がなぜ起こったのかについて可能な説明を与えてくれる仮説を考え出す。結果(驚くべき事実)から遡ってその原因を特定するので遡及的推論と呼ばれるのである。その後、演繹によって提案された仮説に含まれる予測を実験や観察で検証できる形に変換し、その結論がどれだけ経験と一致するのかを帰納によって確かめるというステップを踏む。

 

演繹では、真である前提から死んである結論へと摺り足で進むので、前提に含まれた以上の新しい知識/情報が入り込む余地はないが、アブダクションは、新しい知識や諸概念を発見し知識の「拡張」をもたらす。つまり、演繹のように「真か否か」が重要でなく「拡張的か否か」が重要である。拡張的機能が大きい推論ほど間違う可能性が高い弱い推論になる。遡及的推論は論理学では「後件肯定」と呼ばれ、間違った結論を導く可能性のある推論方法だとされているが、論理的には必ずしも正しくないという側面が、未知の存在や、既知のものの間に全く新しい関係性を見出す余地を生むのだと渡邉は解説する。つまり、演繹的推論では常に正しくない思考が、未知のものの発見という思考の飛躍を可能にするのだというわけである。

 

また、蓋然的推論が、人々の常識を論拠に結論を導き出すのに対して、アブダクションは、これまでの通念や常識の覆いを取り去ったところに、既知のものの新しい関係を見出し、そこから「新たな観点=発見」を導き出すというのである。さらに、帰納が観察可能な事象を一般化するのに対し、アブダクションは多くの場合、観察可能な事象から直接観察することが不可能な原因を推論する。以上のように、仮説を思いつき吟味する際にははアブダクションという推論が用いられ、それを検証可能な形に読み替える時には演繹的に言い換え、観察によって帰納的に事実認識を行うことで、仮説を実証する。このように、アブダクション、演繹、帰納の3つの異なる推論の形式を1つのセットとして段階的に用いることで、仮説形成という個人の探究が、どこでも、誰にでも通用する公共の知識になり得るのだと渡邉はいう。

 

渡邉が紹介する4つ目の思考法が「哲学」である。哲学の目的は物事の本質を捉えることである。例えば「美とは何か」のように抽象的な概念について定義すること、何らかの答えを出すことであり、絶対の真理ではなく、本質についての多様な答えを提示して、さらなる議論を積み重ね、できる限り共通の了解に辿り着き、それを土台に議論して対立を解消したり問題解決したりすることが意義であると渡邉はいう。哲学では、抽象的な概念の正確な意味の定義を行うために「問答」と「対話」によってお互いの共通点や差異を取り出しながら探究を行う方法が古代から用いられた。哲学では常識を疑い、批判的に見ることによってものごとの本質を捉えようとする。そのためには自然や社会など多様な知識の中に問いを位置付けて俯瞰的に議論することが求められると渡邉はいう。主題について蓄積された過去の議論を足がかりに、先人のたどり着いた答え(定義)を議論の中で対話させ、より包括的、積極的、あるいは新しい視点に立った説明を求めていくのだという。

 

渡邉は、哲学においては、提案→議論→再提案を繰り返し、提案に対する反論からより包括的な提案を導くというように、真理を求めながらも、その答えは常に議論や反論によって更新されていくことを前提としていると指摘する。哲学はものごとの本質を捉えることを目指すので、厳密に正しく考えるために細心の注意を払うという。正しい言葉の使用によって正しく考えるために、文法と論理学が役にたつ。哲学において厳密かつ自律的に考える手法として、思考実験や弁証法がある。思考実験は直接的に答えることが難しい概念的問いに対して、架空のシナリオを用いてその具体的な状況に基づいて答えを出す方法である。ヘーゲルが提案した弁証法は、ある見方、それに反する見方、それらを総合する見方というように、<正→反→合>の段階を経ることで概念が自己内の矛盾を解決して高次の段階に至る論理構造である。論理学は、正しい前提から出発して正しい結論を導くが、哲学は前提そのものを吟味にかけ、その前提に間違いがあったり疑問視されたりする場合により積極的な見方を提示するような探究を継続することで、よりよく生きる方法やよりよく考える方法を提供するのだと渡邉はまとめている。

文献

渡邉雅子 2024「論理的思考とは何か」岩波新書

アート思考をビジネスに活かす

秋元(2019)は、現代アートは「最先端の思考」と「感性の技術」であるといい、アートとビジネスは全く異なるとことわりつつも、アート思考の本質を理解することがビジネスにも有用であることを示唆する。実際、ビジネスの中にもアートが重視する人間の直感、感性、感情、価値観というものが知らず知らずに入り込んできているのが今の時代だという。そして現代アートは感性や直感というこのだけでできているわけでなく、観念的な世界とも結びついており、社会や政治とも深く関わっているという。よって、一見するとビジネスとは程遠いアートを人間の営みという高みから俯瞰して見れば、これまでとは違う見方で社会の状況や人間の内面の変化について学ぶことができ、常識にとらわれないアートのアプローチによって物事を捉えることで、自分とは違う世界のありようを想像できるようにもなると秋元は説く。

 

ジェームズ・タレルが「アーティストとは、答えを示すのではなく、問いを発する人である」と述べているように、これからの時代は、答えを引き出す以上に「今、何が問われているのか」「課題は何なのか」という視点から「正しい問いを立てることができる洞察力とユニークな視点」が求められると秋元は主張する。ビジネスの世界でも、改めて人間のあり方を根本から考えて、将来に向けていかにあるべきかを構想してビジネスを組み立てていくことが求めらるわけである。現代アートは「現在の人間像について多角的に考えて、未来に向けて、さらなる可能性を持つ新たな人間像を求め、人間の概念を拡大することに挑戦する試み」だと言えるので、現代アートの思考法が、新しいことに挑戦し、クリエイティブな発想を展開したいと考えるビジネスパーソンにとっても非常に可能性があるという。

 

また、世界中のアーティストは、鋭い嗅覚で時代を捉え、思いもよらない発想でアートとして表現していると秋元はいう。感度のいい野生動物のように時代の変化を肌で感じる直感力を持ち、それらをイメージしていく力があるという。これは「人が見えていない世界」を先取りすることであ離、新たな価値を生み出し世界を変えていく原動力になることを示唆する。見えていないものを表現するためには、見ていると思い込んでいるものが、本当に見ているものではないと考えることが大切だという。つまり、常識の罠から抜け出し、視覚以外の触覚、味覚、聴覚なども含めて原始的で根源的な身体感覚を用いて身体全体で知覚することに気を配って外界と接触し、情報を直接的に得ていく。これはいわば野生の目である。また、「感じる」と共に「考える」。「わからないもの」に接することで思考が促進される。よって、わからないものに対して自分なりに粘り強く考え続けることが重要だと秋元は示唆する。

 

秋元によれば、アーティストたちは、世界を疑い、別の見方で社会や世界を捉えようとする。それは、自らが世界と直に触れ合いたいと望んでいるからである。歴史的な視野の中に自分を置き、自分の人生を通して、新たな見方を歴史に加えるべく、日々努力している。それが、ゼロから価値を生み出す創造的な活動となり、ビジョンとそれを実現する内なる情熱がその原動力となる。とりわけ現代アートでは、今を最優先して「時代」をテーマにしていること、そして、眼の前のものとそれを指し示す意味ないようには距離や断絶があって、そこに様々な意味が流れ込んでいるといった特徴を持った作品が生まれてくる。新しいアイデアは非常に集中した状態の中で生まれる。ハイデガーが、突然のアイデアのひらめきを「出現」と呼ぶように、アイデアは自ら導き出すものではなく、どこからか現れるものだと考えることも可能である。しかし、その機会を得るためには不断の追求がなければならない。つまり、血の滲むような努力の果てに新しいアイデアは生まれてくるのだと秋元は主張する。

 

秋元は、アートの鑑賞を通じて、常識を疑い、普段の見方とは異なる見方ができたり、認識の幅を広げたりできるという。とりわけ、現代アートは、深く感じ、考えるという傾向を重視する特徴がある。現代アートは、自分と社会との関係を探していく羅針盤のようなものだという。つまり、歴史的、哲学的な見方を大切にして、大きな物語に自分を関係づけようとする一方で、一人の人間の目の前の現実を無視しない、例外にしない、そんな両者が成り立つ解答を見つけようとする。大義を探りながら、個別のものも活かす。ミクロとマクロの両方の視点を持つ、あるいは、歴史的な時間軸の中でどの時点に自分がいるのかを考える。その時には論理だけでなく、感性や感覚を使って物事を見る、その前提としてゼロベースで考えることから始める。

 

現代アートの鑑賞は、自らの頭で主体的に考えることのトレーニングにもなると秋元はいう。アート作品を鑑賞するということは、アーティストから発せられた問いを受け取ることだという。その問いに対し、鑑賞者が想像力を働かせて理解しようとする。それによって作品が完結するのが現代アートだというのである。であるから、アーティストの発した問いについて考え、作品と対話することが鑑賞の醍醐味である。「感じる」とともに「考える」ことを通して、答えを自分なりに考える、自問自答していくことが現代アートを理解するプロセスである。答えがなくても考え続ける。考え続けることで多くのアイデアや見方を発見することもある。つまり、わからないものに接することで思考が促されるのだと秋元はいうのである。

文献

秋元雄史 2019「アート思考 ビジネスと芸術で人々の幸福を高める方法」プレジデント社

世界の歴史で学ぶ資本主義

的場(2022)は、資本主義をテーマとする世界の歴史を概観することで資本主義の本質を炙り出す試みを行っている。資本主義とはあくなき利益を得るための社会制度で、勤勉と蓄積という精神が基点となるものだと的場はいう。資本主義が発達するためには、そのスタートラインに蓄積された資金が必要なわけであるが、最初の資金を蓄積することすなわち本源的蓄積を可能にしたのがプロテスタンティズムであり、そのような人々がいたのが西欧であったわけである。西欧で発生した資本主義はあくなき利益獲得を目的とする制度であったがゆえに、それが先進資本主義国を動かし、世界を征服し、従属させることで資本主義が普及していったのだと的場はいう。

 

また、基本主義の発展には近代国家の成立が欠かせない要件であったと的場は言う。資本主義は世界を文明化し豊かにするという側面があるが、一部の国家だけを豊かにするというシステムでもある。企業同士が競争し勝者と敗者が決まるように、国家同士が競争し勝者と敗者が決まるから富が偏在するのだという。こうして、資本主義の歴史は、世界の富を増大させる一方で、世界の貧困を拡大させた歴史でもあるのだという。とりわけ、国民国家というのは、資本主義が発展するための本源的蓄積を進めるための最適規模の市場圏であり、自由主義は資本主義の必然的論理であり、地球全体の市場を目指していく。つまり、資本主義はもとから世界資本主義としか成り立たないと的場はいうのである。

 

さて、資本主義が生み出した勤勉と節約の精神は、それまで支配的であった生産を拡大せずに単純に再生産を繰り返すという人々の考えを根本から破壊したと的場は説く。つまり、資本主義社会の登場とともに無限の成長が志向されるようになり、成長しないと不安な慌ただしい社会になっていった。要するに、資本主義は常に利益を獲得するために休むことなく動き続けるしかない社会なのである。それが、産業革命による機械化によって生まれた労働者の大規模な組織化すなわち分業体制を発達させ、農民を少しずつ土地から追い出して労働者をつくり、労働力を商品化することで資本主義が進展したという。19世紀初頭の西欧は資本主義の「本源的蓄積」の過程でもあり、イギリスでは、都市部の産業資本家が勝利し、封建社会を支えてきた地主の力が崩壊していく歴史でもあったという。

 

19世紀後半には、資本主義はそれまでのものとは変化し、帝国主義となったと的場はいう。帝国主義は資本主義の1つの段階であり、西欧諸国の資本は利潤拡大のために、安い金銀・原料・燃料・労働力および商品の輸出先を求めてアジア・アフリカに進出したのである。アジアやアフリカを植民地にして搾取し、そこから利潤を獲得するわけである。こうして資本主義は世界市場に進出し世界を支配することになるのだが、経済的支配にとどまらず、資本主義による文化的支配の時代でもあった。つまり、西欧の資本主義の歴史は未来のアジアがたどるべき模範史となり、西欧文学は世界文学となり、西欧音楽は世界音楽、西欧芸術は世界芸術、西欧科学は世界科学となったのである。つまり、帝国主義のもとでは、銀行と産業資本が融合し、資本輸出がなされ、領土分割が行われた。帝国主義による支配は経済的支配のみならず、言語による文化支配もあった。

 

19世紀後半に現れた帝国主義国はイギリスのような国民国家帝国主義化していったものだと的場はいう。帝国主義とは、中心と反周辺、周辺というブロックを形成し、中心である宗主国が反周辺や周辺から搾取を行うことで利益を獲得していく宗主国の資本主義のための経済体制だという。帝国主義国は国民国家の延長線上に生まれたもので、中心国は産業資本ではなく金融資本が支配する独占的・寡占的資本主義国である。別の言い方をすれば、中心国では、自由主義的資本主義による自由競争がなくなり独占・寡占が進んだゆえ、競争メカニズムが機能しなくなるため、過剰生産となり産業が空洞化する。そのような状況では相対的に金融資本が強くなり、金融資本が利益を獲得し続けるためには、新たな市場や生産の地を植民地に求め、反周辺、周辺を作り出していったわけである。

 

帝国主義国は非資本主義地域や国を利用して、安価な原料や燃料を好きなだけ浪費し、豊かな生活を築き上げようとした。それが限られた非資本主義国を取り合う帝国主義国同士の対立に発展し、軍国主義としての資本主義経済となり、世界大戦につながった。その中で19世紀にはアメリカが資本主義大国として大きく成長した。第一次世界大戦で衰退した西欧の資金が大量にアメリカに流入し、自動車や住宅ブームを引き起こし、バブル経済が生起した。バブルが永遠に続くには、資金流入が永遠であり、その投資先があり、投資先企業の売り上げが伸び続けることが必要だが、過剰生産に対する過小消費は避けられず、バブル崩壊大恐慌に繋がった。そこでアメリカでは有効需要を国が創出するというケインズ流の国家主導経済統制が進んだが、これを的場は、資本主義が総力戦という国家独占資本主義体制に変化したという。

 

その後第二次世界大戦を経て、社会主義経済を打ち立てたソ連が中国や東欧を囲い込んで閉鎖的な経済圏を作り上げ、資本主義のアメリカ陣営と社会主義ソ連陣営が対峙する冷戦構造が生起した。資本主義側ではアメリカという世界最大の経済力の国による世界市場支配体制であるブレトン・ウッズ体制が成立し、戦後の世界経済を支えてきたが、ニクソンショックによりこれは崩壊した。これが、貨幣があれば消費が進み、それが経済を成長させると考える新自由主義を産むことで欲望をむき出しにした資本主義につながり、それが経済成長を加速させ、地球上の資産を食い尽くしていった。資本主義国は冷戦の雪解け(デタント)をきっかけに社会主義経済に対しても資金を供給していくことで閉鎖体制をも崩して資本主義市場に組み込むことで、社会主義国が借金漬けになって崩壊していったのだと的場は解説する。

 

的場は、社会主義圏の崩壊こそがグローバリゼーションの完成であり、資本主義の暴走の始まりだったと説く。冷戦が崩壊して資本主義の1人勝ちの様相となると、資本主義こそ普遍的なもので、永遠のものであると人々は思うようになったという。全てが資本主義体制に組み込まれ、その中で資本・商品・労働者の移動が完全に自由になる。1国だけの資本主義であれば、そこには必ず産業が必要で、産業資本による工場が必要だが、グローバル化が進めば、世界のどこかを産業資本の工場にして、そこに投資することによって経済が動く。つまり、金余りの国は安易に利益を獲得できるように海外の産業資本への金融投資に励むようになるため、それが国内では金融以外の産業の空洞化を招き、金融だけで豊かになっていく金融資本主義につながっていくと的場は説明する。

 

グローバル化によって世界が1つの市場となることで、有り余った資本がアジア・東欧・ロシアに投資され、安く能力の高い労働者を雇用し、停滞した先進資本主義国の経済成長を担っていった。それは中央を狙う新たな勢力としての半周辺帝国主義国を生み出し、とりわけアジアの成長は西欧的支配を変える新たな可能性の道を進んでいるのか、それとも単に西欧的支配にアジアが乗っているだけなのか、議論の真っ只中にある問題なのだと的場はいうのである。的場は資本主義の後のことをポスト資本主義と呼んでいるが、新しい未来社会を構築するためには、まず持って資本主義の本質を理解することが肝要なのであろう。

文献

的場昭弘 2022「資本主義全史」 (SB新書)