自己成就する理論

理論とは、本来は世界を説明するために構築されるものである。例えば、ある法則を理論化するならば、それが世界をうまく説明したり予測できたりするようにあてはまりがよければ、それは良い理論だということになる。


ところが、とりわけ社会科学では、社会そのものを理論が変えてしまうということもありうる。つまり、理論が社会をうまく説明できるのではなくて、理論が登場したことにより、社会がその理論に沿うような形に変化してしまうというのである。フェラロとフェッファーは、これを「自己成就する理論」と呼ぶ。


これは大きな問題である。理論は世界を予測するものだという「常識」が覆されてしまうからである。理論が世界を変えてしまうならば、理論そのものが正しいか間違っているかは全く関係がなくなってしまう。仮に理論が間違っていたとしても、世界がその理論に沿うように変わってしまう(よって理論が世界を説明しているように見える)のだから。


理解しやすい例として「血液型性格学」を挙げようと思う。この血液型性格学は、科学的観点から見た場合、かなり怪しい。アメリカでは、そもそも血液型を性格と関連付けて捉える風習もない。


仮に、血液型によって性格が決定されるという「理論」が誤っているとしよう。実は「自己成就する理論」の理論によると、その理論が正しかろうと、間違っていようとまったく関係ないのだが、わかりやすくするために敢えて「血液型性格学が間違っている」という前提を置く。


しかし、社会現象を念頭におくならば、この「血液型性格学」は、正しい理論として世の中に歓迎される可能性はかなり高く存在している。その条件は、この血液型性格学が、世間に浸透することである。


世間に浸透すれば、殆どの人が、血液型性格学を知るようになる。そうすると。例えば「B型の人は、○○という性格である」という文章を読むことによって、その言明に影響され、自分の行動がそうなってしまう。「B型の人は○○という性格なんだよね」という会話が世間の常識になってしまうと「自分はB型なのだから、○○という性格なんだろうな」という人が出てきたり、「自分はB型なんだから、○○という性格でなくてはならないのだ」と信じ込む人も出てきてしまう。つまり、血液型性格学が、人々がどういう性格になるべきか、どう行動するべきかどうか教育してしまうのである。


このような結果として、社会はどうなるか。まさに、血液型性格学が指し示すように、人々の性格や行動が形成されてしまうわけである。そうなると「やっぱり血液型性格学は正しいよね。だって当たってるもん」ということになってしまい、血液型性格学の世間に対する正当性が確立されるわけである。血液型性格学が正しいから人々の性格や行動を予測できるのではない。人々が、血液型性格学を正当化するように行動しているだけなのである。つまり、血液型性格学が、真実の世界を表しているかどうか(例えば、生物学的に血液型と性格とが関連しているかどうか)、つまりその理論が本当に正しいか間違っているかはまったく問題ではないのである。


この「自己成就する理論」の理論が正しいとするならば、どんなことが言えるだろうか。それは、世の中に影響を与えることができる人が発する理論は、正しいものとして世の中に受けとめられる可能性が高まるということを示唆する。例えば、為替相場に非常に強い影響力を持つ人が「円高になる」と予測したら、本当に円高になってしまうようなものである。あるいは、理論が正しい間違っているではなく、どれだけ社会に浸透させることができるかが、理論を「正しいもの」として社会に受け止められる確率を高める、ということになってしまうのである。