主観と客観

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フッサールデカルトの意識の問題を発展させ、「自分の外にある客観が存在することは誰にも証明出来ない。ただ、客観や真理と信じて疑わない主観が存在することは否定できず、その信じて疑わない確信の条件をたどることが重要だ」と主張したのです。つまり、現象を説明する場合、完全な客観、あるいは真理というものがあろうがなかろうが、“なぜ主観がそう確信しているかを記述することに意味があり、重要な作業なのだ”といったのです。

そもそも“客観的であること”を突き詰めてみれば、“主観的でない客観”などそうお目にかかれるものではないことに気付きます。その意味で「客観」との対比として「主観」をとらえるのではなく、「主観」の延長線上に「客観」が見え隠れしていると説明した点が重要なのです。質的研究は“主観的”です。しかし、それは「非科学的」であることではありません。むしろ、主観と客観の関係から理論付けた、きわめて科学的なものであるといえます。そして“客観性”を否定しているわけではなく、客観性は存在証明できないものとしてとらえ、主観を通して“非実体”としての客観に近づけると主張しているのだということも忘れてはなりません。

“主観を利用する”という作業は案外難しいことなのです。なぜなら、研究対象の中から“何らかの理論(意味)”を見出すためには、調査者のアンテナ(これを「理論的感受性」といいます)の感度の良さが必要になってくるからです。感度が悪ければ「宝の持ち腐れ」にもなりかねず、また、感受性によってはデータの解釈も随分と変わってきてしまいます。それに、研究を進めていくうちに理論が構築されるためには重要な情報をもたらす標本も必要です。
調査の初期は無作為でも構わないのですが、調査を進めながら徐々に有用な情報源に的を絞っていく作業、これが理論的サンプリングです。ですから、理論的サンプリングでは調査者の“勘ばたらき(理論的感受性)の良さ”が重要になります。しかし、この過程は、しばしば「恣意的だ」とか、「作為的だ」「主観的だ」と批判されます。「主観的」なのは承知の上なのですが、「恣意」とは“思いつき”だそうですし、「作為」とは“偽ってこしらえる事”なのだそうで、質的研究に好意的な筆者として受け入れるには偲びない。そこで、理論的サンプリングはよく「purposive sampling」として説明されることから、「purposive=合目的的」という言葉を提案したいと思います。
質的研究ではサンプルが集められるたびに分析がおこなわれ、このサンプリングと分析は“なんらかの理論が見えてくるまで(この状態を「理論的飽和状態」といいます)”続けられます。ですから、調査が始まってしまえば脇役のようになってしまう量的調査のサンプリングとは異なり、質的研究では調査を進めていく上でもその方向性を左右する重要な役割を担っているのです。