文系理系を問わず量子力学を理解すべき理由

村上(2021)は、正解があるかどうか分からない課題に直面した時に正解にたどり着く方法や、未来を正しく見通す力を身に着けるには、日常感覚の世界を飛び越えたような発想やアイデアに導く比類なき思考が大切だといい、これを「クオンタム思考」と呼んでいる。これは、量子力学から得られるニュアンスであり、この世界では実は、日常感覚的には起こり得ない「まさか」というようなことが当たり前のように起こっていることから導いた考え方である。そして村上は、文系理系を問わず、あらゆる人々が量子力学を学ぶことを勧めるのである。

 

私たちが量子力学を理解すべき理由は何か。村上によれば、量子力学が描き出す世界が、これまでの日常感覚とは根本的に異なるものであり、かつこれからの世界を変えていく技術の中でも最先端に位置しているからなのである。実際、「かつての非日常」はいま、ものすごいスピードで「日常化」しているという。そして、量子力学が扱う量子は、いまだ「日常感覚を超えた存在」だが、量子コンピュータの開発競争に見られるように、「日常化」はもう目前だという。このようなことから、私たちに大切なのは、日常感覚的には起こり得ないことが起こり得るんだという感覚を受けいられるかどうかだというのである。

 

では、量子力学が扱う「日常感覚を超えた存在」としての量子とはいったい何なのか。古典力学で扱うのは「粒子」である。これを微視的に見ると、量子になるわけだが、ここには理論的に不連続性があり、日常感覚で理解できる粒子と、微視的世界での量子は異なる。一言でいえば、量子は、粒子と波が重ね合ったもの。例えば、日常世界では、0と1は異なるが、量子力学では、0と1が重なった状態が存在する。量子が粒子でもあって波でもあるというのは、0でも1でもあると言っているのと同じである。このことからもわかるとおり、量子の振る舞いは、日常感覚的に理解しうるものではない。

 

村上は、このような量子力学を理解し、自分の知識の体系すなわち「フレーム・オブ・レファレンス」を形成させることの重要性を説く。例えば、リベラルアーツなどを志向し、知識を入れ、知識を体系立て、意識的に作られた質の良い(量子力学を含む)フレーム・オブ・レファレンスを土台として、その上に思考を築いていくことを勧めるのである。リベラルアーツは、「答えのないものを問う力」「新たな問いを立てる力」であり、量子力学を土台とした「フレーム・オブ・リファレンス」を用いて世の中の全体像を自分なりに捉えていくことで、日常感覚を超えた「まさか」を受け入れられるようになる。

 

村上によれば、「なんじゃそりゃ」と日常感覚を超え出るという感覚を味わうのが、量子力学の世界である。粒子でもあり波でもあるという量子の振る舞いを数式で表すのが量子力学の世界なのである。量子はその振る舞い自体が、日常感覚的に理解し得るものではない。「古典思考」「クラシック思考」が築いてきた科学技術の最先端には、日常感覚を超越した量子の世界が広がっている。この事実を受けいられるかどうかが重要である。「非日常感覚主義」としての「クオンタム思考」は、「イエスであってノーでもある」状態が認められている世界である。ただし、日常感覚を超えているとはいえ、量子力学はすでにさまざまなところで取り入れられている。つまり、私たちは「まさか」の現象に基づく技術に支えられた世界に生きていると村上は言う。

 

例えば、村上は、量子コンピュータが、私たちの生活とビジネスを大きく塗り替えていくという。デジタル量子コンピュータでは、量子の「重ね合わせ状態」を「量子ゲート」と呼ばれる量子回路で操作することによって、1回の計算であたかも複数の計算を並行して実行したかの如く量子併立計算が実現される。量子ゲートという量子回路の操作によって、私たちが想像する以上の膨大な計算が同時並行できる。これからの社会に大きな影響をもたらすと主張する。また、脳科学や自己意識の解明に、量子力学は欠かせないものではないかという議論も展開されているという。自己意識というものは、古典的な物理学ではわからないのではないかという一方で、古典の延長にある、量子の世界こそに「観測者」の正体が隠されていることが匂わされているのである。

 

このように、量子力学を理解することにより、私たちは、日常感覚の外に飛び出て、時代の最先端で戦い抜けるようになると村上はいう。つまり、これまで自分や社会を縛っていた常識から解放されることで、解決困難だと思われていた課題に、第三の道を提案できる。それどころか無数の道を見つけ出すことすら可能にしてしまう。また、まるで未来を覗いてきたかのような想像力構築の過程を探り、時代の最先端に立てる人材になる。すなわち、量子力学をベースとする「クオンタム思考」によって、まるで「未来を見通す神通力を持っている」と周囲から見られるような、時代の先取りをすることができるようになると村上は説くのである。

文献

村上憲郎 2021「クオンタム思考 テクノロジーとビジネスの未来に先回りする新しい思考法」日経BP

人生が変わる現代思想と精神分析

千葉(2022)は、現代思想を学ぶと、複雑なことを単純化しないで考えられるようになるという。単純化できない現実の難しさを、以前より高い解像度で捉えられるようになるというのである。その1つの例が、秩序と逸脱という二項対立の脱構築という考え方である。千葉によれば、現代は、世の中を「きちんとしていく」方向に改革が進んでいる。すなわち、ルール化、秩序化を重視し、ルールを守らず、秩序から外れる「だらしないもの」すなわち逸脱を切り捨てたり取り締まったり無視したりする。これは単純化なのであるが、単純化は個別具的なものから目を逸らす原因となる。現代思想は、物事を「秩序と逸脱」のように二項対立として捉え、どちらが良い、どちらが悪いという議論を一旦留保する。そうすることで、秩序を強化する動きへの警戒心を持ち、秩序からズレるものに着目するという。排除される余計なものをクリエイティブなものとして肯定するわけである。

 

上記の話を自分の人生になぞらえていうならば、現代では、自分で自分の行動をきっちりとコントロールでき、主体的・能動的であるべきで、受け身ではよくないといった生き方が推奨されつつある。しかし、他者と生きている現実では、他者に主導権があり、他者に振り回され、受動的にならざるを得ないこともある。であるから、「能動性と受動性」の二項対立についても、どちらがプラスでどちらがマイナスかということは単純に決定できない。むしろ、能動性と受動性が違いを押し合いへし合いしながら、絡み合いながら展開されるグレーゾーンがあって、そこにこそ人生のリアリティがあると千葉はいう。これは、自分の秩序に従わない他者を受け入れるということでもあり、そこに人生の魅力があるというのである。現代思想は、余計な他者を排除して、自分が揺さぶられず安定していたいという思いに介入するのである。

 

自分でコントロールしきれないものが大事だという現代思想の基本的な発想につながったものの1つに、フロイトが創始した精神分析がある。千葉によれば、精神分析の実践とは、自分の中にあるコントロールから逃れるような欲望のあり方を発見することである。自由連想法を用いて、記憶の中にあるありとあらゆることを芋づる式に引きずり出し、いろんな過去の出来事が「偶然的に」ある構造を形作っている、すなわち過去の諸々の偶然性からなる「無意識」を、自分がコントロールできない「他者」として認識させようとする。一方、人間の意識としては、全くわからずに自分の人生が方向づけられているとは思いたくないため、意識の表側で何らかの意味づけを行い、物語化することで生きている。ただ、そのような物語的理由づけによって症状が固定化されていると精神分析では考えるのである。つまり、秩序とは偶然を馴致し必然化しようとする働きであるために、秩序を重んじる意識は、訳もわからず要素がただ野放図に四方八方につながりうる世界が下に潜在しているという構造を抑圧してしまうことで症状が出ると考えるのである。

 

千葉は、現代思想が、精神分析の胸を借りるような形で自分の思想を形成しているという面があると指摘した上で、とりわけ影響力のあるラカン精神分析について説明する。ラカン精神分析の根底にあるのは、「人間は過剰な動物だ」という定義である。千葉によれば、過剰さとは、「人間はエネルギーを余している」ということであるが、それは、秩序からの逸脱性を表している。人間は、脳神経の発達のために認識の多様性を持っているため、それが過剰さを生み出している。人間は成長の過程で、人間を取り巻く第一の自然である「本能」ではなく、第二の自然である「制度」によって、そもそも過剰であり、まとまっていない認知のエネルギーを何とか制御し、整流していく。つまり、人間は、認知エネルギー(欲動)が余剰に溢れてどうしたらいいかわからないような状態は不快であるので、そこに制約をかけて自分を安定させることに快を見出し、規律訓練を求める。しかし、一方では、ルールから外れてエネルギーを爆発させたいというような、規律・秩序からの逸脱という衝動もある。

 

上記のように、人間は過剰な存在であり、逸脱へと向かう衝動もあるのだけれど、儀礼的に、あるいは制度によって、自分を有限化することで安定して快を得ているという、エネルギーの解放と有限化の二重のプロセスがあり、そのジレンマがまさに人間的ドラマであることを理解するのが大切だと千葉はいうのである。二項対立を認識した上で、どちらが良い、悪いという判断は留保するのである。余剰を持った欲動は、人間の本能的傾向とは別に、欲動の可塑性というものを持っており、それは一種の逸脱として再形成される。私たちが正常と思っているものも、正常という逸脱でありうる。このような前提のもとでラカンは、人間がいかに人間になっていくか、すなわち成長していくかを、人間がいかに限定化され、有限化されるかという視点で分析する。

 

千葉によれば、ラカンは、大きく3つの領域で精神を考えている。1つ目は「想像界」で、イメージの領域である。2つ目は「象徴界」で、言語(記号)の領域である。この2つが合わさることで、ものがイメージとして知覚され、言語によって区別されることで認識を成立させるが、第3としての「現実界」は、イメージでも言語でも捉えることができない、認識から逃れる領域である。別の言い方をすれば、人間が生まれたばかりの時は現実界しかないわけで、そこから成長するに従ってまずイメージの世界が形成され、言語の習得によって物事を分けることができるようになる。徐々に想像界に対して象徴界が優位になり、混乱したつながりが言語によって区切られ、区切りの方から世界を見るようになる。これは世界が客観化されることでもあるが、想像的エネルギーの爆発は抑制されてしまう。つまり、いろんなものを区別せずつなげていく想像力は弱まっていく。そして、認識が成立していく過程で失われるものが、イメージにも言語にもできない「本当のもの」、成長する前の原初の時には経験できていた現実界だというのである。

文献

千葉雅也 2022「現代思想入門」(講談社現代新書)

 

生物は死があるおかげで進化し存在している

私たちにとって死は避けられない人生のイベントである。いつか必ず訪れる死は恐怖であるが逃れることはできない。では、なぜ私たちは死ななければならないのか。この素朴な質問への答えとして、小林(2021)は、進化が生物を作ったからであり、進化の過程で死ぬことが絶対的に必要だったからだと論じる。死は、進化の結果として生物に備わった機能でもあるということである。それはなぜか。生物の誕生や進化の仕組みから理解してみよう。

 

そもそも生物とはなにか、なぜ誕生したのかを問うならば、それは、化学反応が頻発する原始の地球において、何億年という長い時間のなかで偶然の奇跡が積み重なり、RNAやタンパク質によって自己複製ができる物質のシステムが生まれたことが起源であると小林は解説する。とりわけ、物質的材料をもとに自己編集、自己複製できるRNAが誕生し、その中でもより増えやすい配列や構造をもつRNAが資源を独占し、ますます生き残るような連続反応のスパイラルがRNAを「進化」させ、生物誕生の基礎を作ったと推定されるのだと小林はいうのである。

 

ただ、自己複製の連続反応のスパイラルが起こり続けるためには、常に新しいものを作り出す安定した材料の供給が必要となる。その一番の供給源もRNAであった。つまり、反応性に富む反面、壊れやすいRNAが、作ってはすぐに分解され、分解されたRNAが新しいRNAの材料となった。この「作っては分解して作り変えるリサイクル」が生物の本質でもあると小林はいう。やがてRNAは自らアミノ酸を繋ぎ合わせてタンパク質をつくるリボゾームに変貌した。そして、リボゾームによるタンパク質合成のメカニズムが完備され「細胞」が誕生したのだという。この「たった1つの」細胞が、さらに「作っては分解して作り変えるメカニズム」を途方もなく長い期間繰り返すことで、真核細胞、多細胞生物へと進化しつつ多様性を生み出し、それが多彩な生物の存在につながっていったわけである。

 

つまり、小林の説明によれば、原始の地球において、化学反応によって何かの物質ができた。そこで反応がとまれば単なる塊であるが、それが壊れてまた同じようなものをつくり、さらに同じことを何度も繰り返すことで多様さが生まれた。やがて奇跡が積み重なって自己複製が可能な塊ができるようになり、その中でより効率よく複製できるものが主流となった。その延長線上に生物がある。壊れないと次ができないので、死ぬのは必然である。つまり、死は生命の連続性を支える原動力なのである。地球全体で見ても、全てが常に生まれ変わり、入れ替わっているのだと小林はいう。

 

作っては分解して作り変えるメカニズムをターンオーバー(生まれ変わり)と呼ぶが、これは、新しく生まれることとともに、死ぬことも意味している。つまり、生まれることと死ぬことが、新しい生命を育み地球の美しさを支えているのだと小林はいう。別の言い方をすれば、より効率的に増えるものが生き残る中で、死んだものが材料を提供するというスパイラルによって生物が誕生し、これまで生きながらえてきたといえる。死んだ生物が分解され、回り回って新しい生物の材料となる。植物や動物など他の生物を食べるという行為もその1つである。だから、死ぬものがなければ生まれることもできない。このようにして生まれた多様な生き物が、常に新しいものと入れ替わるターンオーバーが現在の地球を支えている。これを長い目でいうならば、進化ということができると小林は示唆する。

 

原始の細胞は、徐々に存在領域を広げていき、その中で効率的に増えるものが「選択」的に生き残り、また「変化」が起こり、いろんな細胞ができ、さらにその中で効率よく増えるものが生き残る。この「変化と選択」が繰り返された。変化と選択の繰り返しの結果、多様な細胞(生物)ができた。このように、新しい生物が生まれることと古い生物が死ぬことが起こって、新しい種ができる進化が加速する。小林によれば、変化(変異)と選択による生き物の多様化の本質を支えたのは、生き物が大量に死んで消えてなくなる「絶滅」である。大量絶滅が起こることで、そのような環境でも生き残ることができた生物を中心に新しい生物相が生まれ、より新しい地球環境に適応した新種が誕生し、さらに進化発展していったからである。わかりやすくいえば、恐竜が滅びてくれたおかげで、哺乳類が拡大し、人類が生まれたと言えるのである。

 

上記のような説明から言えることとして、小林は、生き物を「進化が作ったもの」と捉えることが大切で、生命の誕生や多様性の獲得に、個体の死や種の絶滅といった「死」がいかに重要だったかを理解することが重要だという。死んでは生まれるという「作っては分解して作り変えるリサイクル」もしくは「ターンオーバー」が少しづつ変化を生み出し、多様性を生み出すからこそ、そこから環境に適応できるものが選ばれて生きながらえることができる。選ばれることなく死んでいくものは生きながらえるものの材料となる。つまり、死も進化が作った生物の仕組みの一部なのである。多様な種のプールがあって、それらのほとんどが絶滅、つまり死んでくれたおかげで、たまたま生き残った「生き残り」が進化という形で残っているのが現在生存している多様な生物だということになる。

 

生物の個体レベルでみても、老化と死という現象が生命の維持において重要な役割を果たしていることがわかる。例えば、細胞の老化は、細胞が増殖を繰り返す中で異常な細胞(癌など)に変化することを防ぐ働きを持っていると小林は説明する。つまり、何度か分裂した細胞をわざと老化させて排除し、新しい細胞と入れ替えるという働きによって癌化のリスクを抑えているというのである。とりわけ人間のように老化によって死にいたるような存在にとっては、老化も進化によって獲得された生物の機能だといえる。このようなプロセスにも回数に限界があることで異常な細胞や老化した細胞を排出する機能が弱まり、個体全体としての老化が死を招くということは周知のことである。

 

これまでの説明で、生と死、変化と選択の結果として、ヒトもこの地球に登場することができたことが明らかである。死があるおかげで生物が進化し、人類も存在している。死は、長い生命の歴史から考えると、生きている、存在していることの「原因」であり、新たな変化の「始まり」なのである。生き物にとって死とは、進化、つまり「変化」と「選択」を実現するためにある。「死ぬ」ことで生物は誕生し、進化し、生き残ってくることができたのである。

 

生き物が生まれてくるのは偶然だが、死ぬのは必然であると小林はいう。その流れの中で偶然にして生まれてきた私たちは、その奇跡的な命を次の世代へとつなぐために死ぬのだという。命のたすきを次に委ねて「利他的に死ぬ」のである。生きている間に子孫を残したか否かは関係ない。地球全体で見れば、すべての生物は、生と死が繰り返されて進化し続けてきたのだから、私たちは次の世代のために死ななければならないのだというのである。

文献

小林武彦 2021「生物はなぜ死ぬのか」(講談社現代新書)

FIREとSDGs, ESGとの関連性

近年注目を浴びているFIREとは、Financial Independence, Retire Eearlyの略で、経済的独立の確立による早期リタイアメントを目指すムーブメントである。山崎(2021)によれば、FIREを目指すことは、自分の人生を通じた経済的安全を確保するための取り組みであり、そのために、自分の老後の経済的安心づくりと自分の将来の働き方や生き方の見直しにもなるため、ライフプランニングとリタイアメントプランそのものであるという。そして、この社会的ムーブメントは、並行して進展している持続可能な開発目標(SDGs)や、投資家が環境・社会・統治を重視するESG投資とも無関係ではない。むしろ、緊密に連動したムーブメントだと考えられる。なぜそういえるのかを以下で説明しよう。

 

山崎は、FIRE実現のためには「年収をもっと増やす」「ムダな支出を減らす」「できるだけ高利回りで増やす」という3つの合わせ技が必要不可欠だと指摘する。まず、FIREを目指すためには普通の生活よりもハイペースの貯蓄を考える必要があるため、自分の価値を高め、時給を高くすることで年収を多く稼ぐ工夫が欠かせない。そして、お金が貯まる流れを作りだすために、節約を欠かさないようにする。必要のないものは買わない、同じものであれば安く買うということを心掛ける。そして、資産が増えるベースを高めるたえに、リスクをとって資産運用をする必要がある。これだけを見れば、FIREは極めて個人主義的な活動に見えるが、社会全体で見てみるとそうでもない。

 

まず、一人ひとりが同じ時間働いて、より多くのお金をもらう方法を考えることは何を意味するのであろうか。それは、価値を生まない仕事をカットして、価値を生み出す仕事にのみ集中することで、生産性を高めることを意味している。社会全体でこれが進めば、社会全体からムダな仕事がなくなり、社会全体の生産性が上がる。また、一人ひとりが副業や兼業も活用しながら収入増を企図するならば、それは本人が持っている知識やスキルを横展開して活用することにつながり、社会全体でみれば人的資源が効率的に活用できることにつながる。これも社会全体の生産性を高めることにつながるわけである。

 

つぎに、節約を心掛け、無駄なものを買わないことは、環境保護サステナブルな社会に貢献する。環境に悪いものは買わない、ゴミを増やすようなことをしない、物質欲を満たすことよりも人とのつながりを大事にしたり心を豊かにする消費活動を心掛けることは、地球環境資源の浪費をミニマムにし、人とのつながりを良好にすること、すなわち愛のある社会を促進する方向でお金を循環させることにも貢献するだろう。企業側から見ても、そのような消費者のニーズを満たすために、環境破壊に貢献するような商品を生産しない、差別や不平等を促進するようなサービスを提供しないといったように、SDGsに貢献する企業経営を推進することにもなるだろう。

 

そして、一人ひとりが収入を増やし、節約することで貯めたお金を増やすための投資活動に力を入れることは、これまで以上に経済的価値を生み出す企業に資金が流入していくことを意味する。とりわけ、山崎は、FIREを目指すような人に対しては、投機的な活動をするのではなく、インデックスファンドなどを通して長期投資を推奨している。これを社会全体で見た場合、まとまったお金を託されたファンドが数十年といった超長期で投資を考えるならば、おのずと地球環境を破壊したり、望ましくない社会をもたらすことに貢献するような企業ではなく、SGDsを推進する企業に資金が流れるようになることを意味している。これは、投資家によるESG投資によって可能になる。

 

このように、一人ひとりがFIREを目指すと、社会全体のお金の流れも変化し、それがESG投資などを通して持続可能な社会の実現に向けた活動を活性化させることにつながると考えられるのである。もちろん、個人が行動を変えれば社会も変わるといったボトムアップ的な社会変革が簡単にいくわけではない。そのような動きを阻むような政治・経済・社会構造が存在しているからこそ、そう簡単に望ましい社会に移行するわけではないのである。だが、FIRE, SDGs, ESGを関連付けて考えることの意味はあるだろう。

文献

山崎俊輔 2021「普通の会社員でもできる日本版FIRE超入門」ディスカヴァー・トゥエンティワン

インパクトのある仕事をするための編集思考

佐々木(2019)は、編集を「セレクト(選ぶ)」「コネクト(つなげる)」「プロモート(届ける)」「エンゲージ(深める)」の4つのステップによって、ヒト・モノ・コトの価値を高める行為だと整理し、すべてのビジネスパーソンが編集思考を身に着ければ、日本はもっと面白くなる、すなわち編集思考こそが、日本と日本人の未来を作ると指摘する。つまり、編集とは、ヒトやモノやコトのよいところを「外に出して」、何かとつなげて、新しい価値を「生み出す」手法であるから、あらゆる企業がイノベーションをお越し、新規事業を開発するための技術でもあり、あらゆる人々が自分らしいキャリアや人生を紡ぎ出すための道具なのだと論じる。

 

佐々木は、「経済×テクノロジー×文化」を軸に、横串で多彩な価値を生み出す編集思考を駆使する個人が増えることが、日本の希望になるという。「経済×テクノロジー×文化」は、「社会科学×自然科学×人文科学」とも置き換えられる。佐々木によれば、編集とは「素材の選び方、つなげ方、届け方を変えることによって価値を高める手法」だと定義できる。この定義は、冒頭で紹介した「セレクト(選ぶ)」「コネクト(つなげる)」「プロモート(届ける)」「エンゲージ(深める)」の4つのステップと関連している。

 

最初のステップである「セレクト(選ぶ)」では、他の人にはまだ見えていない価値を発掘するために、物事の良いところだけを見て惚れ抜き、惚れた対象を見極めるために、対象に惚れた「直感」を現場と論理と他人の目によってダブルチェックし、自分と共通性が高く、距離を近づけやすいタイプのものと、自分とはほとんど共有するものはないというものという両極をあえて取りに行くことの重要性を佐々木は指摘する。

 

次のステップである「コネクト(つなげる)」では、「古いもの」と「新しいもの」をつなげる、「縦への深堀り(専門性)」と「横展開(教養)」でつなげる、異業界や大企業とスタートアップなど文化的摩擦が大きいものどうしをつなげる、そして、アイデアを組織政治などによってつぶされないように利害関係をつなげることの重要性を佐々木は説く。

 

さらに次のステップの「プロモート(届ける)」では、実際に生まれたものをどう外に向けて表現するかを考え、適切なものを、適切な対象に、適切なタイミングで届ける方法を考える。その際、3つのTが重要だと佐々木はいう。1つ目のTは時間軸(timeline)で、絶妙なタイミングでうまくつなげた素材を届ける。2つ目は思想(Thought)で、たんなる思いつきではなく、深い思考を経て体系化された「ビッグアイデア」や「コンセプト」を届ける。スターバックスの「サードプレイス」が1つの例である。3つ目は、真実(Truth)で、嘘をつかないだけでなく、ありのままの姿を取り繕わずに伝えていく。

 

そして、最後のステップである「エンゲージ(深める)」では、顧客との関係を深めるサブスクリプションモデルのようなものを実現するために、4つのCというポイントがあると佐々木はいう。1つ目は、コミュニケーション(Communication)で、良質なコミュニケーションを通じて、2つ目のコミュニティ(Community)の形成につなげていく。リアルな場を持つなどして、関係性の深さと質を高めていく。3つ目が、一貫性(Consistency)で、エンゲージメントを高めるための信頼と共感を得るために、一貫性を大切にする。4つ目が、カジュアル(Casual)で、これからの世の中が、よりフラットで柔らかい関係がベースになることを踏まえる。

 

では、どうすれば私たちは、上記に挙げたような編集思考を身につけることができるのだろうか。それに関して佐々木は、「教養」「人脈」「パワー」の3つのリソースの獲得が重要だと論じる。教養とは、「最先端」と「普遍」の引き出しを多く持つことであり、自然科学の知+社会科学の知+人文科学の知を指す。つまり、「自然」と「社会」と「人間」をどれだけ深く知っているかということである。自然科学はつねにアップデートされるが、社会科学と人文科学は、普遍性が強く、古代からさして変わらない「人間」や「社会」の本質を見つめる必要があるという。

 

教養を現実に活かすための触媒となるのが、「人脈」だと佐々木はいう。とりわけ40歳を超えると、その最大の付加価値は「誰を知っているか」「無理を言っても仕事を助けてくれる知り合いがどれくらいいるか」になるという。人脈がないと、編集思考でよいアイデアを考えても、形にならないわけである。そのため、世代、業種、文化、性別を超えて、自分と異なる人とのネットワークを大切にすることが重要だという。そして、人脈とセットになるのがパワーであり、その源泉が権力と権威であるという。権力や権威があると、自ら決断して、他の人を動かすことができると佐々木は指摘する。

 

さらに佐々木は、「教養」「人脈」「パワー」を土台として編集思考を磨くために必要な行動として、「古典を読み込む」「歴史を血肉とする」「二文法を超越する」「アウェーに遠征する」「聞く力を磨く」「毒と冷静さを持つ」ことを挙げている。

文献

佐々木紀彦 2019「異質なモノをかけ合わせ、新たなビジネスを生み出す 編集思考」 NewsPicksパブリッシング

人生の成功を左右する不確実性マネジメント

田渕(2016)によれば、不確実性とは、将来の出来事に予測できな性質が備わっていることであるが、不確実性との向き合い方が人生の長期的成功を決めるくらい決定的に重要であるにも関わらず、不確実性は驚くほどに理解されていないと指摘する。人はいつも予想外に振り回され、予想外にとても弱いのだから、この予想外に対処する方法を学ぶこと、すなわち不確実性と向き合い、そこから生まれるリスクをいかに制御していけるかが決定的に重要だというのである。結論を先取りしていうならば、そのような方法とは「短期的な結果に振り回されることなく、長期的な成功の可能性を高めていくこと」だと田渕は論じる。

 

このような不確実性のマネジメントで第一に押さえておく必要があるのが、ランダム性についての理解だと田渕はいう。もちろん、現在においても、未来がどうなっていくのかを予測するための材料は存在する。それは容易に予測が可能な「すでに起きた未来」といえるが、本当の未来は、公式で表すと「未来=すでに起きた未来(予測可能な未来)+不確実性(予測不可能な未来)」となる。不確実性の比重がどれくらい大きいかは事象の種類によって異なるが(例、日本の将来の人口動態は予測が容易)、おおむね不確実性の比重は高いものだと考えたほうがよい。そして、まったくの偶然によって出来事の経過やプロセスが左右されるという不確実性を、ランダム性というと田渕はいう。

 

ランダム性という不確実性の特徴は、因果関係が存在せず、確率があって、確率に従って結果が生じるということだという。であるから、正規分布のような確率・統計の知識を用いれば、結果を予測することは不可能だが、確率は見積もることができるわけである。そして、確率的に記述可能な不確実性には、確率的に対処することが可能だと田渕はいう。絶対確実なことはないのだから、ランダム性の働きによって短期的には良い結果や悪い結果が出たとしても、長い目でみたトータルな結果で成否が判断できるように、長期的な成功確率が最大化するように意思決定していくということである。例えば、期待値を用いて考え、期待値を上回ったり下回ったりするリスクを測定し、とれるリスクの量を制御するというわけである。

 

ただ、ランダム性では説明できないもう1つの不確実性があると田渕は主張する。世界はランダム性以上に不確実なのである。それは何かといえば、株価の大暴落のように予想外の大変動がしばしば起こること、すなわち、ランダム性と正規分布を仮定すればまれにしか起きないと考えられる極端な出来事が、実際には頻繁に起きてしまうような不確実性であり、これは、ファットテールとも呼ばれる。このようなケースの多くは、確率分布が「べき乗分布」に従っており、べき乗分布の場合は、出現確率が期待値から離れていっても正規分布で想定するよりも下がり方がなだらかであり、正規分布ほどには低下しないために、それなりの頻度で起こることになるのだと田渕は説明する。

 

べき乗分布のように予想可能な明確な原因や兆候がなくても大変動が起こってしまうことがあるのがなぜかというと、ある結果が生まれたときに、その結果が原因となって結果が再生産されるという自己循環的なプロセスが存在するからで、これは、ポジティブフィードバックと呼ばれる。自己抑制的なネガティブフィードバックの場合は、極端なな事象が起こることを抑制して安定した状態に戻そうとする働きがあるのに対し、自己循環的なポジティブフィードバックの場合は、次々と結果が再生産されることによって予想だにしないような極端な結果につながってしまうのでる。フィードバック自体は因果関係で説明できるにしても、フィードバックには複数のパターンが存在し、そのどれになるかはランダム性に左右されるので、プロセス自体は予測可能なのに、全体としてみれば予測不可能ということになると田渕はいう。

 

上記のような予測困難な複雑性によって生じる現象の1つがバブルである。田渕によれば、バブルはいつか必ず弾けるが、いつ弾けるかは予測できない。ただ、バブルに乗ることで大きな利益を得られる可能性があるから、とにかく波がきたと感じたら、それが本当の波かどうかにかかわらず、とりあえずその波に乗ることを田渕は勧める。波(とおぼしきもの)が続いている限りにおいてはそれに乗り続ける。「音楽が鳴っている間は踊り続けよう」というわけである。ただその一方でバブルに踊らされず、冷静さと合理的な精神を失うことなく行動し続ければ、急激な逆回転が始まってバブルがはじけても手痛いしっぺ返しを防ぐことができるという。

 

そして、パターン化された失敗を生み出す人間の心理バイアスをよく理解し、失敗から学ぶことも大切だと田渕はいう。成功を過大視せず、自分を過信せず、予想外のことが起こることを想定し、予測が外れても壊滅的な状況にならないように常に注意を怠らず、失敗自体はおそれずにトライを繰り返していくことが重要だというのである。予測は外れて当たり前と考え、コンセンサスが得やすい予測は外れたときにパニックを生むので違う方向に大きく動く性質を持っていることを理解する。そして環境の変化に合わせて柔軟に戦略を修正していくことで、あたかも生命が長い時間をかけて生き抜き、人類にまでたどりついたような進化とにたようなプロセスを実現することが重要だと田渕はいうのである。正しいやり方の効果は長期的にしか現れないのだから、小さな失敗を許容しつつ、大きな失敗を避けることが重要だというのである。

文献

田渕直也 2016「最強の教養 不確実性超入門」 ディスカヴァー・トゥエンティワン

 

物理学的思考法とは何か

橋本(2021)は、日常的な出来事に関する様々なエッセイをもとに、物理学者が繰り出す究極的な思考法を紹介している。そもそも物理学の研究対象は、広大は宇宙から極小の素粒子まで想像を絶する世界であり、物理学者はそういった浮世離れした対象のことを毎日考え続けているため、一般とは異なる思考方法に熟達している。橋本はそれを「物理学的思考法」と呼ぶ。例えば「そこに牛が見えますね。ではまず、牛を球と仮定します」というのは物理学的思考法を揶揄する有名なジョークだそうである。

 

物理学的思考法では、物事を抽象化し、奇妙な現象が発生する理由を論理的に推察するところから始まるという。その際、あらゆる記述において、まず仮定を明らかにし、自分で仮説を立てる。そして、それを実証するために実験や観測をする。その際、計算に用いる法則を明示して、それに基づき計算を実行し、最後に計算結果の物理的解釈を述べる。自分の仮説が検証されると満足感を覚え、新しい現象を予言するというサイクルなのだという。

 

では、そのような物理学的思考法につながるような物理学とはそもそもどんな学問なのだろうか。橋本によれば、物理学とは、理系における究極論理の学問である。また、物理学はさまざまな極限状況から新しい考え方や見方を発見していく学問でもある。そこで前提となっているのが、昔、青山秀明氏が橋本の前で語ったように、物理学とは「宇宙が何からできているのか、どうやって始まったのか、それを数式を使って解き明かしていく学問」だということである。

 

つまり、物理学は、この宇宙で起こるあらゆる現象を数式にして、数学者が作り上げた微分積分などの概念を駆使し、現象の理由を解き明かしていくのである。橋本が高校時代に好きだった高校数学、そして矛盾しない論理だけを頼りに言語を作っていくような数学者が職業として行う数学ではない「高校数学」とは、実は物理学のことだったのだと橋本は気づいたそうだ。

 

であるから、とりわけ理論物理学者は、物理現象を表す数式から出発して、それを解くために変形する。その数式の背後にある物理現象がどんな風に起こっているのかを知りたいから、数式をいじっているのだと橋本はいう。いったん現象が数式化されると、その瞬間に世界が抽象化される。そして数式は独自のルールで自分勝手に動き出す。なぜなら、和の世界は、足し算や引き算のルールが決まっており、そのルールの範囲内で行ける場所が限られているから「動き」が見えてしまうのだという。

 

では、物理学者が物理学の世界にのめり込んで熱中する原因はなんだろうか。橋本によれば、物理学者は、視界に入るあらゆるもの、物質を、不思議だなと感じ、理解しようと努力する。実際、人間の思考はその身体に制限されている。しかし、体は空間的に束縛されていても、頭の中には広大な平野が広がっている。であるから、究極的な宇宙への疑問、それを解き明かそうとする思考は、そこへ行ってみたい、目で見たい、触りたい、という身体からの欲求なのだという。人間の身体は何万年と変化していないから、不変の研究テーマが人間にあるのだろうと橋本は述べる。

文献

橋本幸士 2021「物理学者のすごい思考法 (インターナショナル新書)集英社インターナショナル」