情報論的生命観とは何か

生命とは何かという深遠な問いに関して、私たちの多くは、非常に素朴な見方をしがちである。それは、生命をパーツの集合体として機械論的にとらえるものである。この考え方が浸透し、臓器などの「生命部品」は交換可能な一種のコモディティと考えられるようになったと福岡(2017)は指摘する。このような考え方の出発点はデカルトだと福岡はいう。デカルトは、すべての生命部品の仕組みは機械のアナロジーとして理解でき、その運動は力学によって数学的に説明できるとしたと福岡はいう。その結果、動物の生体解剖が進み、身体の仕組みを記述することに邁進するようになったというのである。

 

しかし、上記のような素朴かつ間違った生命理解を修正するには、ミクロレベルの生命現象で何が起こっているのかを解明しようとする分子生物学の発展を待たねばならなかった。とりわけ、シェーンハイマーという科学者によって、生命現象が絶え間ない分子の交換の上に成り立っていること、つまり動的な分子の平衡状態のうえに生物が存在しうることが、明らかにされたのだと福岡は解説する。福岡はそこから「動的平衡論」を発展させたわけだが、彼はこの考え方に依拠しつつも、情報学的な観点からの生命観についても説明している。

 

情報論的な生命観の核となる考え方は、生命を自己複製可能かつ可変的でサステナブル(永続的)なシステムとして捉える際に、生命体を構成するタンパク質の構造を規定する「情報」がもっとも本質的な役割を果たしているという点である。タンパク質とはアミノ酸がいくつも連結した高分子化合物であり、生態を構成するアミノ酸は20種あり、その組み合わせが「情報」となる。その情報に基づいて生体の維持に必要なタンパク質を常に合成しつづけている動的なプロセスこそが、生命の本質を捉えているというわけである。

 

このような情報論的生命観を分かりやすく理解するための例として、福岡は、食べたものを消化するプロセスに着目する。素朴な考え方しかできない素人であれば、私たちの身体にはタンパク質が欠かせないから、食べ物に含まれているタンパク質を体内に取り込んで、不足するタンパク質を補うというような考え方をしがちである。しかしそれは間違った考え方である。食べ物は生物(生命)であったものの一部であり、私たちは端的にいえば他の生物を食べている。であるから、食べ物に含まれるタンパク質には、元の生命体を構成していたときの情報がぎっしりと書き込まれていると福岡は説明する。

 

もし、他の生物のタンパク質がそのまま私たちの身体の内部に取り込まれれば、他者の情報と私たちの情報が衝突し、干渉しあい、アレルギーや炎症や拒絶反応などの様々なトラブルが生じる。これらの反応はすべて生体情報同士のぶつかり合いである。では、私たちはどうやって体内のタンパク質を得ているのか。それは、消化の仕組みをミクロな分子生物学の視点から理解すれば分かってくる。実際に行われているのは、食べたものの中にあるタンパク質が、消化酵素の働きによって、その構成単位であるアミノ酸にまで分解されてから体内に吸収されるということである。

 

福岡の例えでは、タンパク質が「文章=情報」だとすると、アミノ酸は「文字」である。文字によって情報は生まれるが、文字自体は情報ではない。つまり、生命体は、口に入れた食べ物をいったん粉々に分解することによって、そこに内包されていた他者の情報(タンパク質=文章)を解体する(アミノ酸=文字)ということなのである。食べたものが消化され、アミノ酸として体内に吸収された瞬間には、食べ物に含まれていた生体情報は消失し、ばらばらになった文字だけになる。そして、体内で、これらの文字を組み合わせることによって自分自身の情報を作り出すことが行われる。これが、生体内でのタンパク質の合成である。

 

以上の説明をまとめると、私たち生物は、口に入れた食べ物に含まれるタンパク質をそのまま自分の体内のタンパク質として加えるのではなく、いったんアミノ酸のレベルにまで分解してから、体内で吸収したあとにそのアミノ酸を使って新たなタンパク質として合成している。情報論的生命観を理解すれば、なぜ私たちがそんな面倒くさいことをしているのかが理解できる。自分の生体に必要なタンパク質を作る情報は自分が維持している。そこに他者の生体情報が入り込むと衝突してしまう。だから、生体情報のない文字レベルにまで粉々にされたアミノ酸を取り込んでから、それを材料として、自分自身が保持している情報に基づいて自分の体内に必要なタンパク質を合成しているということである。

 

福岡によれば、私たちの身体は数か月で全部入れ替わってしまうほど、分子レベルでは高速に、体に分子を取り込んでは別のものを体外に排出するというような生体分子の入れ替えを行っている。そのプロセスを維持するために、毎日食物を食べる必要があるわけだ。それを理解できれば、生物をミクロな部品からなるプラモデルのように捉える機械論的な考え方がいかにお粗末な考え方であるかが分かるのである。

文献

福岡伸一 2017「新版 動的平衡: 生命はなぜそこに宿るのか」(小学館新書)

 

民主主義とは異なる中国の統治システム

中国ではいまだ民主化が進んでいないという見方が大勢である。橋爪・大澤・宮台(2013)によれば、共産党一党支配下の中国は「社会主義市場経済」を標榜しており、民主主義市場経済ではない。また、宮台は、「中国が市場経済化と民主化を両立させることはできない」という渡米して近代的社会科学の知識を身に着けた中国人エリートの意見を紹介している。民主主義なるものの最終価値は、「人民による政治」だということを宮台は示唆するが、では、中国は、民主主義ではないがゆえに、民意が政治に反映されない統治システムだといえるのだろうか。これを理解するには、中国の長い歴史において貫かれてきた欧米とは異なる伝統的な統治の考え方がヒントになると思われる。

 

まず、橋爪は、中国人の第一公理が「トップリーダーは有能でなければならない」、世襲のためトップリーダーが有能でない場合の第二公理が「ブレーンが有能でなければならない」であるから、君主と君主の手足になって働く行政官僚が有能であればよいというのが中国人の考えで、その有能な行政官僚を要請するのが儒教であったという。官僚における科挙の制度や抜擢人事による徹底した能力主義と、君子の世襲に基づく世代を超えた安定性の両方を組み合わせることで優れた統治を行うというシステムであったわけで、君子も官僚も有能ではなくなってしまった場合には、「全取っ換え」が起こるが、これが「易姓革命」といわれるもので、それは農民の総意なのだという。つまり、中国の人々はまったく容赦がなく、中国の歴史は交代の歴史、革命の歴史だというのである。

 

中国の伝統的な統治が上記のような特徴だとすれば、現在まで伝統が継続している中国での統治方法は本質的に民意が反映されないものであるといえるだろうか。歴史的に見れば、欧米の民主主義とは異なるが、何らかのかたちで民意が働いてきたとはいえるだろう。実際、中国の歴史では、農民の中からリーダーにのし上がった英雄が大勢現れて各地で予選、準決勝、決勝を行い、新たな統治者が現れ、新たな政府が誕生する。これは天命すなわち天の意志と解釈される。この政府の交替が繰り返し起こってきた。このような革命を儒教は承認するのであり、革命を承認する政治思想という点では、マルクス主義と似ていると橋爪は指摘する。

 

いったん「全取っ換え」が起こり、新たな君子、あらたな統治が生まれるのであれば、君子の存在とその血統による世襲を通じて政権を安定させることを正統化するためのロジックが必要になる。そこで重要な役割を果たすのが中国における永遠不変な「天」の概念である。天が、「天命」によって君子や政府に統治権を授与することで正統性が生まれるのである。大澤は、ただ、天命は、実際に天が下りてきて統治権を渡したりする形でくだされるわけではないから、状況証拠みたいなものが必要である。それは、農民が文句を言っていないということであり、逆に言えば、農民が文句を言って各地で反乱が起きたりすると、そのときの皇帝の天命はもう尽きたとなるのだと論じる。

 

つまり、中国では、政権による持続的、継承的支配の正統性の究極的な根拠として「天」を考えたわけであるが、その「天」が、政権はときには交替しなくてはならないという論理も内包することになり、易姓革命の論理が不可避になったと大澤は指摘するのである。ただ、神と違って天には人格がない。最後の審判もない。天命によって統治権力をある人に与えたあと、チェックがない。契約ではなく丸投げなんだと橋爪は指摘する。したがって、皇帝は、政治権力者として振る舞うとうパフォーマンスをやりつづけるのが自己正当化になるというシステムで中国はずっと来ているというのである。

 

では、現代における中華人民共和国と、失脚することなく何十年間も共産党の頂点に君臨していた毛沢東の存在はどのように理解すればよいのだろうか。とりわけ、大躍進政策文化大革命など、半端ない大失政を行ってきたにもかかわらず、毛沢東の権威は現在でも持続していると大澤は指摘する。そして、それは毛沢東が「世俗化された皇帝」として機能したからだろうと大澤は述べる。毛沢東が意図的にそうして操作したわけではないだろうが、彼の振る舞いが、天と天子を持っている中華帝国という核となる文化的要素でありシステムにはまっていったのだというのである。

 

そして、鄧小平以降の改革開放と文化大革命の関係については、通常は、文化大革命がとてつもなく中国経済の足を引っ張って、それを克服するために改革開放が進んだと理解されがちであるが、大澤は、文化大革命市場経済に適さないような様々な中国の伝統や習慣、行動様式を一掃したことで伝統の桎梏から解放された人々を大量に生み出したという思わぬ作用、意図せざる効果があって、そういう状況で一挙に改革開放が行われたので、人々は自由に新しい制度に対応できた、すなわち、改革開放こそ、文化大革命の最終的な仕上げだったのだという側面があるのだと論じる。まさに、中国人による「人生万事塞翁が馬」の考え方のように、文化大革命は明らかに悲劇だったが、後になって「それが捨て石になって、いまがある」と理解できるのではないかと宮台は指摘する。

文献

橋爪大三郎・大澤真幸・宮台真司 (2013)「おどろきの中国」(講談社現代新書)

 

中国にとって「漢字」とは何か

日本人の視点から「漢字」をみると、中国において中国人が生み出した文字というように単純に考えてしまいがちである。しかし、橋爪・大澤・宮台(2013)による鼎談によれば、中国は歴史的にみても現在においても多民族国家であり、民族間ではお互いに理解できない言葉を話していたわけであるから、そもそも中国とは何なのか、中国人とは何なのかを理解するうえでも最も重要なものが漢字であるといってもよく、ある意味で、中国を定義するものが漢字であるともいえる。では、中国において漢字はいったいどのような役割を果たしてきたのだろうか。

 

まず、漢字は、人類史において他の文明とか他の文化の真似や影響なしに独自に文字を作った数少ない例である。中国のほかにこのように独自に文字を生み出したのは、エジプトとメソポタミアとマヤ以外にないと大澤はいう。また、漢字はアルファベットのような表音文字ではなく、表意文字である。これは、話し言葉を文字で表現するという過程で生まれたものではないため、普通の人が容易に習得できる文字ではないことも意味している。これは、多民族国家である中国の特徴と深く関連していることを橋爪・大澤・宮台は示唆している。

 

鼎談において橋爪は、中国が、主権国家の集合であるEUのような存在であったことを理解することが重要だと説く。つまり、春秋戦国時代の越とか楚とか秦とかは、お互いに異なる民族だと考えたほうがよいという。フランス、ドイツ、イタリアのようなものだというのである。言葉が通じない人々ばかりのときに、表音文字を使うと、各言語を表記はできるが意味は分からない。それに対して中国は、概念をかたどった絵みたいな文字を作ることで、言葉が違っても意味が分かるような文字を生み出した。そしてこの文字を、それぞれの言語の読み方で読むことにした。これが漢字であると橋爪はいうのである。

 

橋爪は以下のように説明を続ける。漢字をどう読むかは、ローカルな言語共同体が勝手に決めればよかった。そのため、異なる民族間では、話し言葉では通じなくても、漢字を使えばどちらの言語でも意味がわかるようになり、漢字による言語共同体ができあがった。ただし、絵文字としての漢字の数は概念の数だけあるわけだからとても多く、習得が極めて困難であるという特徴がある。したがって、漢字による共同体では、漢字を使える人のコミュニケーション能力はきわめて高くなり、統一政府も構成できる一方、漢字を使えるのはほんの一握りの人々に限られるため、大多数の人々は文字が読めないままになって大きな情報ギャップが生じることとなった。

 

上記のような漢字の習得の難しさが、儒教が想定している一握りの官僚/大多数の農民という構図として固定化したと橋爪はいう。漢字を習得できない農民は、お互い言葉が違うために反抗しようにも団結できないわけである。また、漢字は絵文字だから中国語の動詞には人為的で活用がない。中国語は漢字を順番に音読していくだけである。これは、漢字を使うようになった後で、元の言語が漢字に合わせて変質してしまったものではないかと橋爪は論じる。普通は言語があって、それが表音文字で表記されるが、漢字はそうではないというわけである。これはほかの文字とはちがったまったくの大発明であり、これで多くの言語集団を包摂し、漢字を使う人々と定義をしてもよいような「漢民族」ができあがったというのである。

 

漢字の別の特徴は進化しないことだと橋爪はいう。秦の始皇帝の時代に決まった漢字のほとんどが今日までそのまま使われている。世界は漢字によって意味的に分節されており、それは永遠不変だと漢字を使う人々は信じているのではないかという。漢字が変わらないということは、漢字は世界のあるべきあり方と対応している、すなわち漢字のシステムは世界の真実のあり方と深く結びついているということでもあると大澤は論じる。それに関連して宮台は、中国人の過去志向と漢字文化とが結びついており、世界は有限要素の組み合わせでできていて、有限要素自体は固定されていて変わらないという世界観を中国人は持っているのではないかと示唆する。

文献

橋爪大三郎・大澤真幸・宮台真司 (2013)「おどろきの中国」(講談社現代新書)

 

量子力学が導くより正確な世界理解ー世界は関係でできている

細分化され専門化された学問としての量子力学は、物体の運動を理解しようとする物理学の1分野にすぎない。しかし、そもそも科学のもとをたどれば「この世界とは何だろうか」を問う哲学や自然哲学から派生したものである。その意味において、量子力学は、微小な視点でこの世界を成り立たせている根源的な現象に迫ることで、世界全体を理解する手がかりを探ろうとする学問であるともいえる。そして、ロヴェリ(2011)が指摘するように、科学とは世界を概念化する新たな方法を探る活動で、時には、過激なまでに新しいやり方でそれを実行する。科学は、自分の考えに絶えず疑問を投げかける力であり、反抗的で批判的な精神による独創的な力であり、自分自身の概念の基盤を変えることができ、この世界をまったくのゼロから設計し直せる力である。

 

上記の視点から量子力学を見ると、そのあまりの奇妙さに戸惑うことはあっても、現実を理解する新たな視点を提供してくれるものだとロヴェリはいう。ロヴェリが主張するその新たな視点とは、「現実は、対象物ではなく関係からなっている」というものである。この関係的視点から世界を理解しようとするならば、自分たちの頭の中にある「現実」の地図を根本的に問い直す核となり、現実が、自分たちが思い描いていたものとは根本的に異なっている可能性を受け入れることになる一方、心身問題すなわち物理世界と精神世界の異同や心の本質などの未解決の問題などへの答えにも近づいていくことを示唆する。では、量子力学の関係的視点とはもう少しかみ砕いくとどのようなものであるのか。

 

ロヴェリによれば、古典力学が生み出した世界理解は、この世は巨大な空間で、そのなかを、さまざまな力によって押したり引いたりされた粒子が飛び回っているということであった。しかし、量子力学の登場により、現実は、決して古典力学が記述するものではないことが判明した。科学的思考は、あらゆるものを絶えず疑い、論じなおすという、動き続ける思索である。そして、ロヴェリが解釈する関係論的な量子力学とは、「自然の一部が別の一部に対してどのように立ち現れるかを記述する」というものである。つまり、この世の中の様々な対象物や事物や存在は、各々が尊大な孤独の中に佇んでいるのではなく、ただひたすら互いに影響を及ぼしあっており、私たちが観察しているこの世界は、濃密な相互作用の網だというのである。

 

ロヴェリの主張する関係論的解釈によれば、1つ1つの対象物は、その相互作用のありようそのものであって、「存在するもの」は、その網のはかない結び目でしかない。その属性は、相互作用の瞬間にのみ決まり、別の何かとの関係においてだけ存在する。あらゆる事物は、ほかの事物との関係においてのみ、そのような事物なのである。この世界には、明確な属性を持つ互いに独立した実体は存在せず、ほかとの関係においてのみ、さらには相互作用したときに限って属性や特徴を持つ存在のみがある。粒子は永続的な実体ではなく束の間の出来事と考えた方がよいとシュレディンガーが言ったそうだ。私たちが普段の生活で、この世界は堅牢で連続したものであるという感じに慣れきっているのは、肉眼で巨視的にみているからに過ぎないのである。

 

とりわけ関係論的解釈で特徴的なのが、事実は相対的であるという見解である。ある対象にとって現実であるような事実が、別の対象にとっても現実であるとは限らない。よって、この世の中が属性を持つ実体で構成されているという見方を飛び越えて、あらゆるものを関係という観点から捉えるしかないとロヴェリはいうのである。私たちは量子論を通じて、あらゆる存在の性質、すなわち属性が、実はその存在の別の何かへの影響の及ぼし方に他ならないということを発見した。物理変数は、事物を記述するのではなく、事物の互いに対する発現の仕方を記述する。事実の属性は、相互作用を通じてのみ存在する。量子論は、事物がどう影響し合うかについての理論である。1つ1つの対象物は、その相互作用のあり方そのものである。

 

この世界は、様々な他者との関係によって生じる事実の網であって、それらの関係は、物理的な存在が相互に作用するときに現実のものとなる。このような関係論的な属性や関係が織り成す世界の観点に立つと、物理的現象も心理的現象も、相互作用が織りなす複雑な構造から生じる自然現象とみなせるようになる。例えば、心的世界に特有だと思われる意味や志向性についても、いたるところに存在する相関の特別な例でしかない。つまり、私たちの心的生活における意味や志向性と物理世界はつながっているとロヴェリは論じる。ロヴェリにとって量子力学は、自分たちの頭のなかにある「現実」の地図を根本的に問い直す際の核になったというのである。

文献

カルロ・ロヴェッリ 2021「世界は「関係」でできている: 美しくも過激な量子論」HNK出版

良い戦略とはどのようなものか

ルメルト(2012)によれば、戦略の基本は、相手の最大の弱みの部分に、こちらの最大の強みをぶつけることである。別の言い方をすれば、最も効果の上がりそうなところに最強の武器を投じることである。企業経営に即していうならば、他の組織はどこも持っていないが自社は持っているものが生み出しうる価値に着目し、それをテコにして重要な結果を出すための的を絞った方針を示し、リソースを集中投下し、行動を組織するのが良い戦略だということである。つまり、良い戦略とは「一点豪華主義」であるといえる。

 

また、良い戦略は、狙いを定めて一貫性のある行動を組織し、すでにある強みを活かすだけでなく、新たな強みを生み出すことだとルメルトは述べる。視点を変えて新たな強みを発見することが重要だということである。状況を新たな視点から見て再構成すると、強みと弱みのまったく新しいパターンが見えてくるわけで、良い戦略の多くが、ゲームのルールを変えるような鋭い洞察から生まれているというのである。つまり、ルメルトによれば、良い戦略とは、自らの強みを発見し、賢く活用して、行動の効果を2倍、3倍に高めるアプローチに他ならないわけである。

 

ルメルトは、良い戦略にはしっかりとした論理構造があるという。その屋台骨となるのがカーネル(基本構造)である。カーネルは(1)診断、(2)基本方針、(3)行動の3つの要素から構成される。まず、診断では、状況を診断し、取り組む課題を見極める。良い診断は死活的に重要な問題点を選り分け、複雑に絡み合った状況を明快に解きほぐす。そして、基本方針では、診断で見つかった課題にどう取り組むかの大きな方向性と総合的な方針を示す。そして、行動では、基本方針を実行するために設計された一貫性のある一連の行動をコーディネートして方針を実行する。

 

どのように強みが生み出され活用されるかについて、ルメルトは、テコ入れ効果、近い目標、鎖構造、設計、フォーカス、健全な成長、優位性、ダイナミクス、そして慣性とエントロピーという9つを挙げている。その中で、ダイナミクスでは、変化のうねりに乗ることの重要性をルメルトは説いている。変化のうねりは、外部の様々な要素の変化が積み重なって形成される。このような変化のダイナミクスは、既存の競争環境を覆し、かつての競争優位を消し去り、新たな優位を生み出すという。このような変化のうねりが押し寄せるとき、まったく新しい戦略が可能となるのである。

 

こうした荒々しいダイナミクスを自分たちの目的に適うように活かすことがリーダーの役割であり、そのためには鋭い洞察力やスキルや創造性が必要になるという。うねりの気配を感じ取り、変化の原動力を見極め、うねりが来たら業界の構図がどう変わるかを見極め、これから高地になりそうな方向を狙ってリソースを配分し、上手に波に乗ることが望ましいという。つまり、うねりがやってくる時こそ、戦略がモノを言うというわけである。

文献

リチャード・P・ルメルト 2012「良い戦略、悪い戦略」日本経済出版社

こころの「拡がり理論」は新たな地平を開くか

こころとは何かについての問いは、深く考えると非常に難解である。そもそも「こころ」はどこにあるのか。例えば「こころは脳に宿る」「こころは脳の活動から生じる」と素朴に考えたとしても、いくら脳科学の発展によって脳のメカニズムが深く理解できるようになったしても、こころの中身をのぞき込むことはできず、こころの正体にはたどり着かない。このように、突き詰めて考えるとどうしても行き詰ってしまう。

 

これに関して、石川(2012)は、こころを「魂」をとらえ、人が死ぬと「霊魂」が抜け出ると信じるような古代の時代から、私たちは何かこころというものを人間の身体の内部、もしくは脳の内部に詰め込まれたものであるという前提に立っていることがほとんどであると指摘する。これを石川は、こころの「詰め込み理論」と呼ぶ。そして石川は、詰め込み理論としてこころをとらえる限り、こころの本質の理解は前進しないという考え方に基づき、独自のアイデアとして、こころの「拡がり理論」を提唱する。

では、こころの拡がり理論とはいったいどんな理論なのだろうか。語意で考えれば、こころは人間や脳の内部に詰め込まれているのではなく、人間の外部にまで拡がった存在であるということになるが、自分のこころ(や意識)が外部にまで拡がっているとはどういうことなのか、直感的には分かりにくい。そこで石川の解説に目を向けるならば、生物の本質を意味作用に置き、「意味作用」を通じてこころを理解していくのが出発点となる。石川によれば、意味作用からこころが生まれるということであり、生物とは環境の中で意味を見出す存在である。

 

石川によれば、「意味」とはコミュニケーションが成立する基本的な要件である。人間は「意味にかかわる」ことで他者とつながり、「意味を見いだす」ことで社会における位置づけを発見する。こころの働きを特徴づけるのも「意味」であるし、「意味すること」は「生きること」であもある。私たちがコミュニケーションなどにおいて、音声や文字といった表象を手掛かりとして、何か(意味内容)を「思い浮かべる」場合、それは意味作用の1つであり、意味作用の結果がイメージである。

 

そして、意味作用は人間が行う「能動的な行為」であるというところが、人間の行動が単に外部刺激に対して機械的に反応しているのとは違うところで、現在のAIやロボットは、このような能動的な意味作用はできない。つまり、AIやロボットには、意味は分からない。表象や記号は多数の意味があるという意味で本来多義的であり、人間はその意味を状況に応じて理解している。さらに石川は、意識と無意識の関係や暗黙知の理論を用いてこの意味作用を深堀りする。

 

例えば、私たちが漢字の意味を知ろうとするとき、意識のうえでは意味を期待しながら、無意識に一点一画を含めた漢字を、意味が生まれる場全体に対して従属的に見ていると石川は解説する。暗黙知の理論でいうと、文字自体は「近位項」であり、現れると期待される意味が「遠位項」である。近位項はさまざまな要素の集まりで、遠位項は近位項が織りなす全体の「地」に対して現れる「図」であって、意味と呼ぶのにふさわしい。近位項が全体従属的に感知され、遠位項が焦点的に感知され、近位項から遠位項へと意味ある存在が現れるが、焦点的感知が意識的な働きなのに対して、全体従属的感知は、焦点化する全体の背後にさまざまな構成物を一望する無意識の働きだという。

 

石川によれば、私たちが持っている身体感覚は単なる皮膚感覚ではない。ハンマーを持てば、ハンマーが腕の一部のように感知されるし、車を運転すれば、車体が身体の一部として感知される。これは、身体感覚は暗黙知の所産であり、遠位項に相当する「意味」だということである。自分の内臓は自分の一部であっても無意識に動いており、ほとんど意識できない。しかし、他者と折り合いをつけて生きていくために有効な「意味ある行為」を探るには、意識が活用される。身体の内側は、無意識の管理下に置かれた近位項なのに対して、外側は意識によって焦点化可能な遠位項である。意識によって状況が全体的に把握されることで、身体感覚が生まれてくる。

 

ここまで理解してやっと、こころの「拡がり理論」の核心にせまることになる。石川によれば、こころは身体の内部に詰め込まれているのではなく、こころの機能を構成する拠り所は広く世界へと拡がっている。世界に拡がった諸要素が、こころの機能における近位項として働く。この近位項はほとんど無意識のうちに取り扱われるので世界へのこころの拡がりをなかなか意識できないという。しかし、文脈に応じてことばの意味が変化したり、状況によって適切な行為が変わったりするのは、私たちの外にも近位項があることを示している。これらが含まれた全体に対して意味作用が行われるのである。

 

こころの多くの部分は無意識が占めているが、無意識の働きには身体の外部にある状況などの諸要素が関わっており、これらが暗黙知の近位項として働く。この近位項には、人間の歴史、動物の歴史、生命の歴史も影響している。つまり、近位項の要素に、生物進化において意味作用を積み重ねた結果としての「歴史的事実」が寄与しているのであり、遺伝的なかかわりもある。そして、これら状況や歴史が含まれた暗黙知の遠位項を方向付けるのが意識の働きだと考えられる。つまり、人間のこころには意識面と無意識面があり、それらは協調して暗黙知を実現し、意味を形成しているわけである。このような「拡がり理論」に基づけば、私たちのこころは、私たちの身体を「拠点」として拡がっていると考えられる。

 

さて、意味とは生存に有効な行為を示唆するものであると石川はいう。そして、あらゆる生命は生きているがゆえに能動的な行為による意味作用を発揮しているから、こころを持つといえる。暗黙知の遠位項を方向付けるのが意識の働きだとすれば、原始的な生物にも「弱い意識」があると考えられる。ただ、「拡がり理論」に基づくならば、意識そのものよりも、そこに意味作用が働いているかを問題にすべきなのだと石川はいう。 下等とされる動物の意味作用と人間の意味作用とを比べて、「人間らしいこころ」とは何かを考えるならば、それは、コミュニケーションという場全体において、状況や歴史の共有を背景にして「共通した意味」があたかも共鳴するように人々の心に生成するところにあると石川は論じるのである。

文献

石川幹人 2012「人間とはどういう生物か―心・脳・意識のふしぎを解く」(ちくま新書)

人間とAIとのコミュニケーションは成立するか

人工知能(AI)の発展は著しく、私たちの生活のあらゆる場面において活用されようとしている。そして現在でも、対人ではなくスマートフォンタブレットに直接話しかけるという場面は、電話でも自動音声と対話することが増えている。これらの背後にはAIがいるわけである。しかし、そもそも人間とAIとのコミュニケーションは成立するのだろうか。これに関して、西垣(2016)は、コミュニケーションとは何かという定義と、人間と機械との違いに着目することに基づく見解を論じている。

 

まず西垣は、コミュニケーションを「閉じた心をもつ存在同士が、互いに言葉を交わすことで共通了解をもとめていく出来事」と、とりあえず定義する。この定義に従えば、コミュニケーションは、生物の間のみで成立し、人間と機械の間では成立しない。なぜならば、生物は閉鎖系であり自律システムであるが、機械はそうでないからである。つまり生物は、生きるために外部環境から自分で意味・価値のあるものを選び取り、独自の内部世界を構成している。一方、機械は開放系であり他律的存在なので、自律性とはまったく縁がない。例えば、AIは指令に従って論理処理を行う機械にすぎない。では、自律的閉鎖系の間でしか成立しないコミュニケーションとはどんなものなのだろうか。

 

基本的に、自律閉鎖系の人間同士の場合、相手の心の中は閉じられて外部から観察できない。よって、相手にメッセージを与えても、相手の意味解釈には幅があり多様な選択が行われることが想定される。これは、相手が自由意志を持っているということでもあり、だからこそ、送り手の意図が誤解されたりすることがある。閉鎖的自律性の存在同士の場合、お互いに相手の内部世界は不可知だということである。よって、人間同士のコミュニケーションにおいては、お互いに腹を探り合い、共通了解のための意味解釈の相互交換が行われる。たえまなく揺れる意味解釈を通じて、推定作業が動的に続けられるわけである。

 

上記の通り、人間同士のコミュニケーションにおいて、言葉(記号表現)のあらわす意味(記号内容)は、言葉にぴったり付着した固定的なものではなく、多様な言語的コミュニケーションを通じて動的に形成されていくものである。また、人間の言葉は抽象化を行うため、1つの言葉があらわす意味の幅がコミュニケーションによって拡大され、多義的・多元的にふくらんでいくと西垣はいう。「彼がねらっているのは社長の椅子だ」というように、比喩的に「椅子」が「地位」を意味するようになるといったように、比喩的なイメージが重なり、ふくらんでいく詩的作用が人間の言語コミュニケーションの最大の特色に他ならないという。

 

一方、機械学習に基づくAIのような存在は、上記の人間同士の言語コミュニケーションのプロセスとは真逆のプロセスを志向する。例えば、AIによる深層学習は、ビッグデータと統計処理を用いて、共通する特徴を抽出して、言語記号の意味解釈の幅を狭めて固定化し、それを論理的な指令(例えば正確な機械翻訳の出力)に結び付けようとする。AIによる自然言語処理での「意味処理」とは、ことごとく多義的な意味内容を1つに絞り込むための工夫なのである。要するに、人間同士のコミュニケーションは、比喩によって意味解釈を動的に広げていく「詩的で柔軟な共感作用」であるのに対し、AIは、言語の意味解釈の幅を狭めて固定化したうえで、指令的で定型的な伝達作用を行っているにすぎないということである。

 

以上の点から、西垣は、人間とAIとの会話は「疑似的コミュニケーション」であると定義づける。これは、閉鎖系と開放系との情報交換であることを示している。この疑似的コミュニケーションの特徴は、上記の人間と機会の違いを踏まえればおのずと明らかになる。人間とAIとの疑似的コミュニケーションにおいては、人間は意味解釈の幅を自由に広げようとし、AIは逆に意味解釈の幅を狭めようとする。コミュニケーションは、相手を自律的に意味を生み出す存在とみなすことと、相手を他律的な指示の対象とみなすことの両義性に挟まれる現象なのだが、他律的開放系のAIは、相手の人間も他律的な指示の対象としかみなせないので、人間を指示の対象として巧妙に操り始めるのではないかと西垣は危惧する。

 

本来自律的閉鎖系の人間も、社会生活においては、社会のルールに従うなど、他律的に振る舞うことも求められている。しかし、原理的に生物はリアルタイムで現在に生きている存在である。それに対し、機械はあくまで過去のデータによってきっちり規定される存在である。人間は、千変万化する状況のもとでも融通をきかせて行動できるが、AIはその動きを阻害する。よって、人間社会に、ビッグデータの活用と論理処理の面では卓越したAIが参入して人間との疑義的コミュニケーションの頻度を増やしていくことになれば、社会集団のなかの人間は、AIの指令にしたがう他律的な存在、機械的な作動単位に貶められてしまう可能性があると西垣は論じる。ある面では人間よりも賢いAIによってあらかじめ決められた計画にしがたって、どこまでも細部にわたるルールが規定され、人間は状況に対応した臨機応変の措置がとれなくなるというのである。 

文献

西垣通 2016「ビッグデータと人工知能 - 可能性と罠を見極める」(中公新書)

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